籠の鳥




                                             



 何もかもが夢であったらいいのに。


 呟いて、呟いて、ただひたすらに呟く。
 ──無駄だとは判っていても呟かずにはおれない。そしてそれは同時に己を縛る鎖となる。
 現実から目を背け、痛みも苦しみもない世界に逃げ込もうとする弱い魂の。


 傷ついた心の、最後の聖域は殆どが夢幻の彼方にある…。



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 ガラス窓の向こうに広がる風景は、作り物かというほどに出来すぎた美しさだ。
 アムロは、もう何年も暮らしながらちっとも実感の湧かない「自分の館」の部屋から四角く切
りとられた青空をぼんやりと眺めやった。あの空の向こうには本当の「そら」…宇宙がある。今
の自分にはそこまで行くことは決してできないが。
<重力が、ひどく重たい…>
 見かけは豪奢だが、人間味のかけらもない巨大な館。その中にたったひとりでぽつりと立つ自
分は恐ろしく無力だ。かつての1年戦争で挙げた輝かしい功績とMS開発に携わっていた実父の
財産はアムロを見えない糸でがんじがらめにした。否やの権利もなく、今の生活をおしつけられ
た。軍の圧力に逆らってまで独立したいという気概は彼にはなかった。
 軍属でなくなった途端に、冷ややかな銃口が己に向けられるという確信があったからだ、とも
言える。だが、アムロは実際自分の命が狙われることに関してさほどの恐怖を感じなかった。ど
うしてかは判らないが、ニュータイプとしての自分を恐れ、嫌う者たちの意思そのものが怖くて
たまらなかったのである。
 それに、軍を離れて一人で生き抜く自信がなかった。当時16歳の子供としては、仕方のない
選択だったのだろう。母には当に見捨てられ、父とは決別し、つかの間判り合えたと思ったWB
の仲間たちとは意図的に引き離されて。いつかは事態が好転するかも、と甘い考えで楽観視して
いたのもまだ本当に子供だったからだ。
 あれから4年。終わりは見えない。ただ「生かされている」というだけだ。
 アムロは、全部夢だったらどんなにいいだろうと考えて、あまりに後ろ向きな自分自身に吐き
気さえ覚えた。けれどもう、そんなことくらいしか思考する力もない。
 この耐え難い無為の日々がすべて架空の時間のもとに支配されていたなら。もし今居る自分が
現実の自分でなかったら。そうしたらこんな忌まわしい場所とは永遠におさらばしてやるのに。
 彼は、数え切れないほど繰り返した想像を、再び脳裏に描き直した。
 ──ある朝目覚めると、そこは慣れ親しんだ自分の部屋。改造中のキットが足下に転がったま
まベッドで丸くなっている。外からは軽やかな少女の呼び声がして、自分はそれに面倒臭そうに
生返事をしながらくしゃくしゃのブラウスを手に取る…。
<アムロ! アムロったら!>
「…アムロ…大尉?」
 ふと背中に低い男の声がして、アムロはせっかくの夢想を断念せざるを得なくなった。微かに
舌打ちして呼び声の主を睨む。あからさまに不満の目を向けられた相手は、だが慣れているのか
まるきり意にも介さず、軽く敬礼の形をとった。
「MS開発部主任がいらっしゃいましたが、お通ししますか?」
 アムロは小さなため息ひとつでどうにか非難の言葉を飲み込んだ。何が「お通ししますか?」
だ! 嫌だと言って追い返せるものならとっくにやっている。
 いや。そもそも何一つ自分には拒否権がないのだ。今住んでいるこの館も回りに控える邪魔く
さい部下たちも自分自身すらも、自分のものではない。思うようには動かせない。
「──判った。いつもの部屋に通してくれ。僕もすぐ行く」



 MS主任、とは世間に対するごまかしの肩書きであって、アムロの処にやってくる人間は実際
はどちらかといえば「医学者」に近い。当然アムロに要求することもMSではなくアムロ本人の
身体に関するデータ収集ばかりだった。しかも彼らは自分たちを「担当者」と言ってはばからな
かったのだ。なのでアムロも主任ではなく担当、と呼んだ。
 アムロがここ・シャイアンにやってきてから自分の「担当」は3人変わった。
 今日ここに来ているのは4人目の筈だ。半年くらい前に交替したから、長いとも短いとも言い
難いが、どちらにしてもまたそのうち替わるだろうことは確かだった。
 軍は決してアムロに親しい人間を作らせようとはしなかった。館内に駐在している兵卒も、ア
ムロと個人的に口をきくほど長く居た試しはない。だいたい半年をめどに新兵に切り替わってし
まう。おかげでアムロは、ここ数年すっかり鬱屈してしまった。
「大尉」
 アムロがいつも使う応接間に足を運ぶと、既に訪問者たちが部屋を占拠していてまるで我がも
の顔に振る舞っていた。相手が複数だと気付いてあからさまに嫌な気分になる。だいたいこうい
うときはろくなことにならない。
 担当の男は顔を見知っていたのですぐ判ったが、後は全員知らなかった。ティターンズ特有の
黒い軍服が目に映るなりアムロはますます嫌な気分に陥る。ティターンズは好きじゃないんだ、
と小さく口の中でぼやく。
「司令部からの命令書です、アムロ大尉」
 形ばかりの敬礼と共に下士官の一人が書類を差し出した。受け取りを拒否する訳にもいかず、
しぶしぶ受け取り、ぺらりと眺める。「身体検査」とだけ書かれていた。
<ほら。いやな雲行きになってきた>
 莫迦々々しいことこの上ない。なんだってこんなアホな命令を、しかも書面で、おまけにご大
層な頭数まで揃えて手渡しに来なければならない? お笑いぐさだ。尋常ではない。
「…わざわざこんな大勢の士官に付き添って貰って俺の何を調べるのかな」
「生意気な口をきくな!」
 途端に怒声が飛んできた。階級章はアムロと同じ大尉のようだったが、ティターンズは一般将
校とは位が違うというのが彼らの主張だ。あからさまに見下した目でアムロを睨む。
「アムロ大尉。基地本部にご同行願おう。命令だ」
 担当の男が軽く頷いてみせたのを合図に、二人の兵士がばらばらとアムロに近づき、その肩や
腕を押さえる。高圧的な態度に呆れたようにアムロがため息を漏らした。
「…抵抗なんてしないよ。自分でちゃんと歩けるから離れてくれないか」
 極力喧嘩腰にならないよう穏やかに言ったつもりだった。だがさきほど怒鳴りつけてきた士官
がにやりと人の悪い笑みを浮かべながら近寄ってくる。乱暴に胸ぐらを掴みあげられてアムロは
すぐに事態を悟った。自分が彼らにとって単なる「獲物」でしかないことを。
 アムロは籠の鳥だ。鑑賞さ、時には弄ばれるしかない生きた玩具。そして中にはその儚い両翼
をむしりたくて仕方がないような、残酷な人間も居る…。
「要注意人物だと指示されている。離す訳にはいかないな」
「痛ッ…」
 ひときわ体格のいいそのティターンズ士官に比べ、アムロは少し小柄すぎた。ほとんど宙づり
状態のようになって呼吸もままならず、無意識に男の手を振り払おうと身をよじる。勿論それが
彼らティターンズにとっては許し難い抵抗であることは言うまでもない。
「…ふん。多少乱暴な手段をとっても構わないのさ」
 言うなり鳩尾辺りに膝蹴りをくらわせた。左右から別の兵士に押さえ込まれているアムロはよ
ける手段もない。鈍い音が響き、アムロは掠れた呻きを零した。
「…ぐぅ…ッ……!」
 続けて硬い拳が何度も下腹にたたきこまれた。酷い痛みと吐き気にさいなまれたが、どうにか
吐かずにやりすごす。もう声にはならない。
 男は、がくりとうなだれるアムロの顎を強引に掴んで上向かせた。ねっとりと熱い眼差しがア
ムロを嘗め回す。恍惚とした表情は明らかに暴力に酔っていた。しかも。
「抵抗したけりゃしてもいいんだぞ」
 下腹に押しつけられた拳が開いて、その手が更に下方に伸びる。最も敏感な処に指がからみつ
いた瞬間、ぞわりとアムロの全身が総毛立った。
「…ッ!」
 びくん、と跳ねる身体を両脇の兵士が含み笑いなどしながら押さえ込む。なるほど、上官の性
癖は良くご存じらしい。
<…最低だね…>
「どうした? 途端に大人しくなったぞ? それともこういうのが好きなのか?」
 くく、と笑って男はアムロの首筋にかみついた。耳元に生暖かい息を吹き込み、囁く。
「大人しくしていれば、後でそれなりにかわいがってやる」



 誠に理不尽な世界だ、とアムロは思う。
 抵抗するだけ無駄なのだ。自分がますます傷つくだけ。なんと不愉快な現実か。
<こんな現実なんか、なければいい>
 何処にも逃げ道のない意識の、最後の解放。
<夢ならいいんだ。夢なら>
 それならば耐えられる。だっていつか目が覚める筈だから。本当はもっといい世界が何処か
にあって自分を待ってくれている。だから──と。
 誰もが一度は憧れる夢想だ。そんな場所など空想の中にしか存在し得ない、と気付くのはい
つのことだったか。アムロもまた、そんな砂糖菓子みたいな憧れはとっくに捨てた筈だった。
「…アムロ大尉。ご案内いたします」
 青年士官が二人、ぴしりと敬礼してきた。機械のようにそれに応じて、アムロはぼんやりと
空を見上げる。大嫌いな基地。いつだってこの建物の中に入ると嫌な目にばかり遭う。
「遠いな…」
 アムロはぽつりと呟いた。あまりに遠い、自由。からみとられた哀れな囚人。
 宇宙は酷く遠く、懐かしかった。
「何か?」
「──いや、なんでもない」
 まだ痛む下腹部を軽く押さえて、アムロは歩き出した。





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 夢の向こうに逃げ込むしかなかった、臆病な青年。
 幾度となく、夢であればいいと呟いた。夢でないことくらい、承知していた。それは彼にと
っては呪文なのだ。自分自身への、唯一の。



 ──籠の鳥が野に放たれるまで、まだこれから3年以上の月日を要することになる。