ゆ ら ぎ






                                             




 「逢ったよ、シャアと」

 ネオ・ジオン総帥としてシャアが正式にスウィート・ウォーター占拠勧告をしてきた直後。
 アムロは、まるで旧友に逢ったかのような何気ない口調でブライトに告げた。ラー・カイラム
のミーティングルームで艦隊のコースを決め、他のメンバーが次々とその部屋から出ていく中で
二人だけがなんとはなしに残り、巨大な航路図ディスプレイを眺めていたときだった。
「逢ったよ、シャアと。…元気そうだった」
「───…ッ…」
 ブライトは、あまりにあっけらかんと言われて返す言葉を失っていた。
 アムロは心底困り切ったような疲れた微笑を浮かべながら独り言みたいに続ける。
「最後にスウィート・ウォーターに入港したときさ…まさか生身で出てくるだなんて思っていな
かったから驚いたけど…あいにく俺の方も丸腰でね。仕方ないから少しだけ話をした」
 言われて、ラー・カイラムが半ば無理矢理スウィート・ウォーターに乗り込んだ日のことを思
い出す。まだシャアの独立宣言がされる半月ほど前だったが、難民収容コロニーであるそこは、
とりわけ連邦を嫌い抜いており、入港手続きでさえ一筋縄ではいかなかった。
 そして、艦を降りたアムロが丸一日、所在が判らなくなった…。ブライトはてっきりアムロは
反連邦のレジスタンスにでも捕らえられたのかと思い、一晩中まんじりともせずに待ち続けたの
だ。だから翌日平然と艦に戻ってきてひとこと「連絡入れるの忘れた」と悪びれもせずに答える
彼を、ブライトはかなり本気で殴りつけた。そのくらいの心配をしてしまうほど、スウィート・
ウォーターは治安が悪かった。
「…あの時…居なくなったのは…シャアの処に居たのか…」
 アムロは「悪かった」と呟いて、小さくひとつ、ため息をついた。
「少しでも説得できないかと思ったんだが…やっぱり無駄だったんだな…、独立宣言してきたっ
てことは…相当準備が進んでるんだろうから、もう、全部諦めるしかないなと思って」
「…アムロ、おまえ…」
 アムロが今までシャアと密会したことを黙っていたのは、僅かな期待に縋っていたかったのだ
ろうと容易に想像できた。…できることなら戦いたくないと。
 ───それが例え、どんなに無理なことだと判っていても。それでもアムロは期待せずにはい
られなかったのだ。それがアムロの性格だった。
「…なあ、アムロ。聞いても…いいか?」
 ブライトは声を潜めてそう言った。アムロが軽く目を見開く。
「なんだ、改まって」
 だが、まじまじと見つめ返してくるアムロの青い双眸にブライトはたじろいだ。まさか「お前
実はシャアのことが好きだったろう」とは言いにくい。さあどうやって尋ねようと頭の中でぐる
ぐる言葉をねじくり回している内、ついぽろりと不用意なことを声に出してしまった。
「…な、なんかされたのか…? シャアの処で…」
 言ってからブライトはしまった、と思う。好きなのかと尋ねるより数倍失礼じゃないか? だ
が一旦口から飛び出してしまった言葉はもはや取り戻せず、アムロは照れるより先に唖然として
ブライトを見つめ直した。
「あっわっ…すまん! 無粋なことを聞くつもりじゃなかったんだが…ッ…」
 あわあわとたじろぐブライトの様子に、アムロはくすりと笑みを浮かべる。こちらはブライト
が心配したほど怒る気はないようだ。やや湿っぽいため息をついてみせてから
「…気になる?」
と逆に煽るようなことを尋ね返してきた。
「───すまん…」
「謝られるとかえって困るんだけどな」
 アムロはそう言って、飲み残しのコーヒーに口をつけた。ちなみにブライトの飲み残しだ。
「抱かれたのかって聞かれれば、そうだよ、としか言えないなぁ…」
 自嘲気味に笑って、アムロはさらりと答えてみせた。その返答はかなりの確率で予想済みだっ
たのでブライトはさほど驚かず、ただ気まずく「そうか」と頷いた。
「でも、成り行きっていうか…どうにもなんない関係だよ」
 好きとか嫌いとかじゃ、どうにもね。そう言って笑うアムロの表情は酷く暗い。ああ、こんな
顔させたくないんだ、とブライトは切に思った。
 こいつがこんな風に寂しげに笑うと、本当に切ない。
「ホントはさ…こんな風になるんじゃないかって思ってた」
「ン…?」
「宇宙で、もう一度シャアと出逢うときは戦うときじゃないかって。…なんでなんだろうな、ど
うして戦うことしか出来ないんだか、俺にも良く判らないんだけど」
 そこまで言ってからアムロは、すっかり冷え切ったそのコーヒーを全部飲んだ。続く言葉が沢
山あるようにブライトには思えてならなかったが、アムロはもうそれ以上何も言わなかった。
 ───言葉にすると一層虚しい気持ちも…あるのだろう。
 ブライトは、ぼんやりと顎のあたりを親指でさすった。気まずくなったときの艦長の癖で、ア
ムロが飲み終わった容器を専用のゴミ入れに放り込むのを見守る。それからやっと自分の手元を
見て、アムロの飲んでいたドリンクがかつて自分のものであったことに気が付いた。
「あ、おい、そりゃ俺のだぞアムロ」
「え? あっ悪い…全部飲んじゃった」
 またか。ブライトはちょっとむくれた顔でため息。飲みさしのドリンクに口をつけられること
自体は別段ブライトも大して気にはしない方だが、アムロが飲むと大抵残さず片づけてくれてし
まうのだ。
「ごめん、もう一個貰ってこようか」
「そのくらいなら食堂に行く。…たく、お前もつきあえ」
 無いと判ると、なんだか突然飲みたくなるのが人情というものである。ブライトはディスプレ
イのスイッチを消してからアムロの背を入り口の方に押しやった。ちょうど靴を床につけていな
なったアムロの身体はふわんと浮き上がって扉へと流れていく。
「…あんまり細かくは聞かないんだな、ブライト」
 アムロが微笑をたたえながら、扉の辺りでとん、と体勢を直した。ブライトは「聞いて欲しい
んだったらいつでも聞いてやるぞ」と精一杯さりげなさを装って返す。
 アムロは、嬉しそうに更に続けた。
「いつでも? そんな暇ないんじゃないか艦長?」
「そう思うんなら俺にあんまり心配かけさせるな」
「心配してくれてるの?」
「当たり前だろ! ったく…」
 扉の開閉ボタンを押そうとしたアムロの手を差し止めて、ブライトは壁と自分の身体とでアム
ロを挟み込んだ。こんなときでもないと触れ合えない自分が呪わしかった。
「俺が…どんな思いでお前の帰りを待っているか、少しは想像してくれ…」
「ブライト…」
 29歳とはとても思えない少年らしさを残した面立ちが、抵抗もせずにじっとブライトを見つ
めてくる。ほっそりと小柄な身体、触れるといつも、堪らない切なさに襲われる。
(こいつが本当に俺の弟や息子だったりしたなら…そしたら絶対にMSなんかに乗せないのに)
 そう考えると、いよいよ目の前の青年が大切に思えてならない。そして、その大切なものがや
がて自分ではないもっと傲慢な存在に攫われていく、という感覚が無性に怖かった。
「アムロ…」
 ブライトの不安を感じ取ったのだろう、アムロがふわりと笑みを浮かべてきた。
「コーヒー、飲みたかったんじゃないのか?」
「…ああ、おまえから貰うよ」
 ブライトは片手でアムロの頬を撫でつけ、引き寄せた。静かに唇を重ね、ゆっくりと味わうよ
うについばむ。アムロの手がブライトの背中に回って制服をきゅっと握りしめた。
「ンッ…」
 アムロに触れていると、ふと、空気が揺らぐ。水底にたゆたうような、柔らかな不安定さ。
 ブライトはそれがとても好きだった。
 扉の向こうでは、誰かの大きな話し声が響いていた。


 ラー・カイラム率いるロンド・ベル艦隊は、ロンデニオンからやや離れた宙域で幾度も戦闘訓
練を繰り返した。事を波立てたくない連邦政府には、ロンド・ベルが興奮しているだけだと鬱陶
しがられるとは判っていたが、ブライトやアムロにとっては一刻を争う時期だった。
 当たり前といえば当たり前だが、艦隊は一度も実戦を経験していないコロニー生まれのクルー
ばかりなのだ。だから彼らは基本的にはスペースノイドであり、連邦に属していてさえ地球連邦
政府を決して良く思っていなかった。
 連邦が嫌いだというのなら、ブライトもアムロも同じだ。だが二人の持つ危機感がクルーたち
にはなかなか上手く伝わらない。かつてエゥーゴの一員としてアーガマに乗り組んでいたアスト
ナージも、最初のうちはシャアの独立宣言をかなり甘い解釈で考えていたようだった。
「…え、だってスウィート・ウォーターさえ明け渡しちゃえばいいんじゃないんですか?」
「シャアがそんなに甘いと思うかい? ネオ・ジオン政府を樹立してコロニーの一つに首相とし
て収まって、それで済むと?」
 アムロはリ・ガズィのコクピットにはりついた。それを追うように工具箱をひっさげたアスト
ナージが流れてくる。アムロがコクピットに収まるのを待って、ハッチにしがみついた。
「そんなことくらいで満足するようだったらそもそもネオ・ジオンなんか興しやしないよ」
「でも、連邦に対抗する勢力になるためには…」
「もしかして「クワトロ大尉」に優しい解釈をしてやりたいのか? アストナージ。これは戦争
なんだぞ」
「…戦争になるってまだ決まった訳じゃないでしょう、大尉!」
「だから甘いっていうんだ。シャアはね、連邦と拮抗したいんじゃない、連邦を…地球を根こそ
ぎ潰すつもりなんだよ。完膚無きまでにさ」
 どこかバカにされたように言われて、別段シャアの味方になった気持ちではないのについ反論
してしまうアストナージ。
「なんでそんなこと大尉が決めつけられるんです?」
「シャアが筋金入りの理想家だって知ってるからだよ」
 アムロはさらりと言って、手でアストナージにどくよう指示した。諦めてアストナージが横に
流れる。ハッチが閉まり、リ・ガズィが右手を差し出してアストナージをすくい上げた。
<もう一回出る。エアロックに移動してくれ>
 リ・ガズィはカタパルトデッキに上がり、射出された。ごくカンタンな演習だというのに、ア
ムロの精神はぴんと糸のように張りつめていた。
 真空の暗闇はいつも、限りなくアムロの思惟を拡大する。
「シャア…が…待ってる…」
 ぼんやりと、アムロは自分でも気付かないうちに呟いていた。その言葉の意味もよく咀嚼しな
いまま、今さっき母艦を出たばかりのジェガンが編隊を組み飛行するただ中に飛び込んだ。


 ラー・カイラムの周囲を淡い水の膜に似たゆらめきが覆う。
 キャプテンシートに座っていたブライトは、咄嗟にその感覚がアムロだと思った。彼を身近に
思うとき必ず感じる、あの優しい感覚だ。
「…アムロ、また出たのか」
 ブライトは口に出すつもりではなかったのだが、ついぽそりと言ってしまった。パイロットの
人数は大して多くはないが、綿密に訓練させるため更に少人数の部隊に分けている。アムロはロ
ンド・ベル艦隊すべてのMS隊長という名目であるため、すべての部隊にいちいち付き添ってや
ることはできないのだが、それでもこの頃彼は艦内に居るよりもリ・ガズィの中で宇宙空間を泳
いでいる時間の方が圧倒的に長かった。
 副艦長のメランが振り向いた。オペレーターの一人がブライトの声に答えるべく手元のコンソ
ールに指を走らせ、すかさず報告する。
「はい、たった今MSデッキの方から報告が。大尉は演習を続けるとのことです」
「凄いですな艦長。ニュータイプですか?」
 メランが言うと、ブライトは顔をしかめて「ちゃかすな」とぼやく。
「俺はさっきアムロに「いい加減上がって休め」と言ったんだぞ、聞いていないのかヤツは」
「あの人は直接捕まえて言わないとダメでしょ」
 また別のオペレーターがちゃかすように言った。こんな緊張感のなさも、今の内だな、とブ
ライトは内心で苦笑した。直に本当の戦闘になる。…そうなっても少しでも笑いを保つことが
出来るかどうか、が冷静さを維持する鍵だった。
「でも、じゃあ艦長、何故判ったんです? アムロ大尉が外に出たと」
 ブライトはなんでもないことのように手をひらひら振って答える。
「…いつまで経ってもブリッジに上がってこないからな、また出たのかと思っただけだ」
「なるほど」
 その言葉にとりあえずは納得したメランである。
「ミライの方が、よっぽどニュータイプだったな、そういえば」
「ほう? 奥さんが?」
「俺なんかは相当鈍いオールドタイプだから全然判らんような敵の殺気みたいのを随分敏感に
感じてたらしい。…でもこんな俺でもホワイトベースに乗ってたってだけで上層部はニュータ
イプ扱いだぞ、バカらしい」
 メランが笑って続ける。
「ニュータイプは危険分子扱いですからな」
「ニュータイプを化け物かエスパーとでも思ってるんだろ。そんなんじゃないってことくらい
何で判らん? 宇宙に出てちょっとこの辺が鋭くなっただけじゃないか」
 この辺、と言いながらブライトはこめかみのあたりをついでにぐりぐりと指で揉んだ。
「俺みたいな生粋のオールドタイプにも判りやすいけどな、アムロの場合」
「判りやすいって何です?」
 また別の男が尋ねた。ブライトは再び自分の頭を指さした。
「アムロが、あいつがMSに乗ってると、この辺に水のカーテンみたいのがかかる。…それだ
けだがね」
「なんだ艦長、やっぱしニュータイプじゃないですか!」
 わっとはやし立てるような声がブリッジ中にあがった。どっと笑われてみるみる赤面した艦
長は一喝「ええい五月蠅い!」と怒鳴ったが、大して静まりはしなかった。






 ロンド・ベル艦隊が初めて実戦を経験したのはそれからまもなくだった。
 5thルナが地球に落ちるのを、ロンド・ベルは阻止できなかった。
 悔しさに歯がみしてアムロはフォン・ブラウンにνガンダムを受け取りに行き、ラー・カイ
ラムはネオ・ジオンの第二波攻撃に備えながら宙空を航行する。
 そして、レウルーラからMSが出撃したことを補足したロンド・ベル艦隊は味方のMS部隊
を迎撃に出す。だが頼みのアムロは居ないまま、リ・ガズィさえ使えず、ジェガン部隊はいい
ようにあしらわれ、酷く苦戦していた。
「右の弾幕! 薄いぞ! なにやってんの!」
 戦闘ブリッジにブライトの怒声が響き渡る。MSデッキと繋がったままの内線はメカニック
やパイロットたちの叫びにごちゃつき、オペレーターたちはそれらをなるべく整然とまとめる
ために必死だ。
 だが、不意にオペレーターたちの数人が同時にほうけたような顔を上げた。
 頭の片隅に、不可思議なゆらめきを感じたのだ。優しい水の膜みたいな、薄いカーテンが艦
隊を守るような。…すうっと心の何処かが楽になった。
 その場では誰も思い出せなかったが、やがて、アムロがνガンダムを受け取って帰還したと
知ったとき、オペレーターのひとりはようやくブライトのいつかの言葉を思い出した。
 ああ、艦長が言ったのはこのことだったのか、と。