<1>
優しい、とても優しい感情がアムロを包んでいた。
アムロはぼんやりと目を開けた。掠れた吐息と共に、名を呼んだ。誰が側に居るかは姿を確認
するまでもなく判っていた。
こんなに優しい想いを向けられたことなどかつて一度もなかったが。
「…シャア…?」
宿敵である筈の金の髪の男が、はらはらと涙を零して自分を抱きしめていた。なんでνガンダ
ムのコクピット内に居るんだこいつ、とアムロはどうでもいいようなことを真っ先に思った。自
分が彼に抱きしめられているのも不思議だった。
「判るか? 君なら私を、判ってくれるだろう?」
アムロはその言葉を耳からではなく心で聞いた。シャアの意識が完全に自分に向かって開いて
いるのが判った。ああ、まったく分からず屋の子供みたいだ。けれど、何故かもう腹は立たなか
った。それどころかとてつもなく愛おしい存在のように思えた。
…泣いて、縋って。大の男が。
「…判って…る…って…言ってやった…ろ…」
泣くなんて狡い、とアムロは思う。泣かれてしまったら、慰めるしかないだろう?
「アムロ」
シャアは、アムロの目が覚めたことにはっとして、恥ずかしげに指の先で涙を弾いた。くす、
と自嘲気味な笑いを浮かべて。
「なあ…アムロ。私たちはもっとちゃんと…お互いのことを話すべきだったと思わんか? もっ
ときちんと話し合っていれば…せめて今からでも遅くはないか?」
身体中が酷く痛む。手足がなんだか棒みたいだった。息が熱くてうざったかった。多分これは
死ぬんだな、と思ったから、投げやりに答えた。
「遅いよ…今更、どうやったって…」
「…アムロ!」
その言葉を痛烈な拒否と勘違いしたシャアが、叫ぶ。だがアムロは、もはやまともに会話を為
せる状態ではなかった。苦痛に唇を切れるほどかみしめながら、それでもアムロは必死にシャア
の手を取った。震える手で。
<…判ってる。判ってるよ。けど、俺達はここまで戦ってきてしまっただろう?>
「……ッ…」
アムロの声が脳裏に直接響く。それほど鮮明に意思を交わせる力がある、というより、アムロ
にはこの力しか残っていないのだ。それに気が付いて、シャアはにわかに顔を青ざめさせた。
「アムロ! …アムロッ!」
<耳元でがなるなってば…だいたい…俺の気持ちはどうなるっていうんだ…>
シャアは、ひとつ瞬いた。君の気持ち、と繰り返す。
<…俺は…あんたを殺して俺も死のうって覚悟してたんだぞ! あんたが無茶なことばっかり言
いやがるから…地球に住む人間はみんな屑だとか、今すぐ人類全部に英知を与えることができな
いなら抹殺しちまえとか…そんな気が狂ったみたいな無茶な言い分を…でも俺は判っちまうから
…あんたの気持ちが判るから…だから!!>
「アムロ…」
シャアは、びっくりしたようにその場で固まった。アムロの言葉には、自分に対する限りない
優しさと理解が入り交じっていた。ああ、と感嘆のため息が洩れる。
──そうだ。判っている、とアムロは確かに言ってくれたではないか。
「…無茶かもしれないが…無理ではないだろう? 過激な言い分だったのは認めざるを得ないと
ころだが」
<…俺は…あんたを殺したくなんかなかった…戦いたくもなかった…なのにあんたが無理矢理戦
場に俺をひっぱりだしたんだ! あんたの気持ちなんて判ってたさ! だけど他にどうやってあ
んたを止められるって…>
アムロの声は、そこまでで唐突にとぎれた。と思いきやアムロは苦しげにむせ返り、ごほっと
血塊を吐く。シャアのスーツにも血が飛び散り、胸元はたちまち朱に染まった。シャアはあわて
て腰のポケットから止血帯を出してアムロの口元に当ててやった。
「しっかりしろ! アムロ!」
ひゅ、と呼吸音が疎らになった。血の塊が喉に絡まったのかもしれない。シャアは乱暴なやり
方だと承知でアムロの背を掌で強く叩いた。肋骨の数本くらい折れているだろうと判っていても
息ができないことの方が命に関わる。
「ぐ…ゥ……ッ…」
また幾度かむせ返って、アムロは多量の血を吐いた。吐き切れずに口内に溜まった血を、シャ
アは自らの口で吸い出してやる。止血帯もどす黒く変色し始めた血でぐっしょりと濡れた。
「アムロ…アムロ…頼む、しっかりしてくれ…」
シャアは必死で懇願した。アムロに、というよりただ誰にともなく懇願した。宇宙の神よ、も
し存在するのならばアムロを殺さないでくれ。私から離して連れていかないでくれ。
「ララァ…頼む…助けてくれ…!」
うふふ、と笑い声が聞こえた。シャアは我が耳を疑った。
14年前に失ってからというもの、ただの一度も聞いたことのないララァの声だった。彼女は
14年前とまったく変わらず、柔らかな声音だった。
…私は…今初めて、ララァの声を聞いているのか…?
「ラ…ラ…?」
アムロが微かに呟いていた。止まりかけていたアムロの呼吸が、幾分不規則ながらも戻ってき
ている、シャアはそのことに心底ほっとして、鉄の味で一杯になった口元を無造作に拭った。
アムロの口元も血で汚れていた。素手の方でそれを軽く擦ってやった後、そっと唇を近づけて
同じく鉄の味しかしないアムロの唇に、優しいキスをした。
「…アクシズの後部破片と共にνガンダム発見!」
通信兵の言葉に、ラー・カイラム艦長ブライトは「よし!」と歓喜の声を上げた。νガンダム
からの通信応答はなかったが、どうせ外部モニタやら外装やらはめちゃめちゃになっているのだ
ろうから、通信がとぎれているからといってアムロが死んでいるとは限らない、とブライトは希
望を捨てなかった。
「もっと近づけ! アクシズにアンカー発射! ラー・カイラム固定!」
「ラー・カイラム固定完了しました!」
「ワイヤー牽引、準備いいかアストナージ! 私は外に出る! ブリッジは任せる!」
通常であれば艦長であるブライトが自ら宇宙に出るなどということはない。けれど、すっかり
戦闘の収まった空域で、しかも長年の朋友であるアムロを捜しに行くとなれば、皆は黙ってブラ
イトを送り出した。救護班の人間が二人、救急ポッドと共にブライトに付き添った。
「…アムロ! 無事か!?」
νガンダムはアクシズの岩壁に張り付くようにして漂っていた。慎重にコクピット側に回り込
んだブライトは、だがそのコクピットのハッチが既に開かれていることに気が付く。ぎゅっと心
臓が縮まった。
「…アムロ…?」
死んでしまったのか? 何かの弾みでコクピットのハッチが開いて、アムロはもう大気圏に落
ちてしまったとか?
「艦長…」
「ちょっと待っていろ」
悲痛な声を出す救護班の者に手を振って、ブライトはコクピット内に滑り込んだ。そこかしこ
に鮮血が振りまかれていて、縮まっていた心臓が一気に跳ね上がった。
「…アムロ…ホントに…ダメなのか…死んでしまったのか…?」
諦め切れずに、そっとコンソールを撫でた。それからふと目線をあげて、νガンダムの機体の
影に赤い球体状の脱出ポッドを見つける。そのポッドもハッチは開かれていて、辺りはひそやか
に静まりかえっていた。
「……?」
そして、ブライトはとあることに気が付いた。
コクピット内はいろんな機器が砕けて散らかってはいるが、決して熱で溶けた訳ではない。楽
観的見方かもしれないが、このコクピットハッチは、この辺りに流れ着いてから開いたのではな
いか? アムロはもしかして、ついさっきまでここに座っていたのではないか?
でも、だとしたら何故アムロは外へさまよい出た? 大人しく待っていればロンド・ベル艦隊
が必ず救出にくるのをアムロが疑っていたとは思えない。
「誰かが…連れだした…」
莫迦げた発想だ。ブライトは首を振った。一体どこの誰がアムロを外に連れ出す? 可能だと
すればあの赤いポッドの中に居た人物だけだ。
そしてその人物とは、間違いなくあのシャアの筈だった。
「艦長。戻りますか?」
救護班の男に声をかけられ、ブライトは躊躇した。アクシズを見上げる。アムロが生きている
として、誰かが連れだしたとして、…あくまで仮定でしかないが、連れて行く先はアクシズの内
部しかない。
…行ってみなければ。急いで。
「お前たちは先に戻っていい。…私はアクシズ内部が気になる。30分したら戻る」
救急ポッドだけブライトはその場に残させた。νガンダムに繋いでおいて、それから手近な入
り口を求めてブライトは浮上した。
<…ブライトが上がってくる…>
ふと、唐突にアムロの声が脳裏に響いた。シャアははたと作業の手をとめ、救命用ポッド内に
横たわるアムロを振り向く。アムロは目を閉じたままだった。偏光ガラスの下で顔色等の判別は
つかないものの、一見死んでしまっているかのようなやつれた表情だ。シャアは、何十回も確認
した生命維持装置の酸素供給メーターをまたも確認した。酸素はちゃんと、一定量消費されてい
た。アムロはまだ生きて、呼吸している。
「…ブライトか。それは拙いな。私が生きてこんなところに居ては、真っ先に射殺される」
<だから、俺なんか置いてさっさと逃げればよかったんだ。…どうせ俺は死ぬつもりだったし、
そうでなくたってロンド・ベルのみんなが探しに来てくれる>
死ぬつもりだった、との言い分にシャアは腹を立てたように返した。
「せっかくまだ生き残っているのだから、生き延びることをまず考えたらどうだ? そんなに君
が死にたがりだとは思わなかったぞ」
アムロは黙った。黙ってしまっても、アムロ特有の思考の波がシャアに届くので、アムロの意
識は沈んでいないと判る。随分と便利なものだな。シャアはこの非常時に少しだけ笑ってしまっ
た。口を使わずとも会話ができるとは。
「ここで私が君の手を離したら、また同じことの繰り返しだ。この戦いが終わった後に生きるつ
もりがなかったのは私も同様だが、せっかく人生総て賭けて得た理解者を一瞬で失うのは甚だ辛
い。…あともうすこしだけ、欲を出してみたくなったのだよ」
そう思わないか? ララァ。シャアはさっきから感じるララァの気配にもそう語りかけた。不
思議なもので、14年もの間かけらほども見つからなかったララァの魂を、アムロの中から感じ
るのだ。ララァはもうとっくにアムロに融けていて、自分を待っていたのかもしれない。
「…君を…君までも失いたくない。どうあっても絶対に君の手を離すまいと、今さっき誓ったか
らな、なんとしても助ける。…もう少しだけ耐えてくれ、アムロ」
アクシズは、もとはといえば旧ネオ・ジオンを掲げたハマーン一党の持ち物だった。影武者の
ミネバ・ザビを擁し、長らく本陣とした大型移動要塞。当然緊急用脱出シャトルなどは用意され
ている。連邦に撤収された後も、それらは外されておらず(おそらく連邦も何かのときに役立つ
と思って緊急用の装備関係はとっておいたのだろう)きっちりもとの場所に残っていた。そして
当然、シャアはそれらの場所を大概知っていた。
「もし、万が一私に何かあっても…君が生きていてくれれば嬉しいと思う。…不思議なものだ。
自分の命より大切なものはないと信じていたこの私がこんな感情を持てる日がくるとは」
<…あんたが先に死んで、俺だけ生き残ってどうしろって? 俺は嫌だよそんなの>
アムロが憤慨した意思を伝えてくる。その熱烈な言い分にシャアはほくそ笑んだ。アムロの言
葉はまるで、恋人に先立たれたくないと駄々を捏ねる台詞そのものだった。
「…誰かに死んで欲しくないとねだられることがこれほど嬉しいとはね…」
シャトルを動かすための混み入った一連のガードロックを解き、ようやく射出位置に固定し終
わる。アムロはまだ時折血を吐いていた。多分肺付近に傷があるのだろう。このままシャトルに
乗せても地球まで息が保つかどうかは非常に怪しい容態だった。むしろアムロが(たとえ心話で
さえ)会話ができるということ自体奇跡に近かった。
だが、シャアは、アムロを連れていくことに何のためらいもない。
彼はそうするより他に手段がなかったのだ。
<…シャア。…ブライトが>
「なに?」
薄暗いコントロールルームにぱっと一条の光が差した。シャアが銃を構えると同時に半壊した
扉の影から、連邦軍のノーマルスーツを着た男がひとり、現れた。
(2001.7.1)
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