夢へと続く道




                                            


                   <3>



 優しい、優しい心のウェーブ。
 …ほのかな暖かさに包まれている。守られている、という安心感。
 <…だ…れ…?>
 アムロは長いながいこと、夢の中をたゆたっていた。誰かが常に側に居て、揺らぐ自分の意識を
しっかりと包んでくれていた。
<誰が…居る…の…?>
 アムロは手を伸ばした。伸ばした先は見えないのに、手はいつもしっかりと誰かに受け止められ
ていた。穏やかに、力強く握り返されるてのひら。心地よかった。
 ずっと、ずっと。
 …そうしてアムロは眠り続けていたのだ。




 こつこつ、と礼儀正しいノックの音がして、ベッド脇に座っていた男はさっきからずっと握りし
めていた患者の手をするりと離した。白い小さな病室にはベッドがひとつだけ。殺風景で清潔なそ
の部屋の主は幾日も意識を失ったままだった。
「兄さん。私よ。入っていいかしら」
「構わん」
 返事と同時に、静かに扉が開いた。たおやかな金髪の美女がにこりともせずに滑り込み、すぐさ
ま扉を閉める。椅子に座った男の姿を見て、ふっ、と小さなため息。
「珍しい光景だと、ご自分で思わなくて? 兄さん」
 兄と呼ばれた男は、嘲りを含んだようなその言葉に、声もなく微笑した。額にかかる髪をかきあ
げる。黒っぽい茶の髪は、実は元の色ではない。安い染髪料で適当に変えたのだ。
「なんと笑われても甘受せねばならんな。…頼んだものは? アルテイシア」
 アルテイシア、と呼ばれて彼女は僅かに苦痛を混ぜた顔になった。が、それ以上何も言わず、手
に持っていた袋を備え付けの小さなテーブルに置いた。
「すまんな。感謝する」
 今はアルテイシアではなくセイラ・マスと名乗っている彼女は、言わずとしれたシャアの妹であ
る。前髪をすっかり下ろし、僅かに黄金がかったダークブラウンの髪の男は、つまりシャアだ。彼
は、シャトルから直接彼女を呼びだし(何故正確に妹の居場所を知っていたかは、セイラ側からは
知る由もないが、大方ネオ・ジオン復興のための潜伏期間中にでも調べ上げたのだろう)、自分と
アムロの身柄をセイラの名で引き取って欲しいと頼み込んだのだった。
「…また、こうして兄さんと地球で過ごす日が来るとは思わなかった」
 受け入れ空港側も、シャトルが到着する前から「連邦軍関係者」との連絡を受けていたので大し
た審査もなく通してくれた。ちょうどアクシズが落ちるだのなんだのでごたごたしていたから、地
球から出るならともかく戻ってくる物好きをいちいち疑う気にはならなかったのだ。それでなくて
も連邦は(特に予定をごり押しして空港に割り込むようなお偉方は)うるさい。黙って見なかった
振りをするのがベターなやり方だった。まして、シャトルには一刻を争う重傷の患者が乗っている
と聞けば入国審査なぞ悠長にやる暇はなかった。
「そうだな。…不思議なものだ。お前とまた、ゆっくり話す日が来ようとは」
「兄さんは、私の言うことなんかちっとも聞いてくれなかったわ」
 でも、アムロを助けるためになら、何もかも捨てて地球に降りてきてくれるのね。セイラはそう
呟いて複雑そうに微笑んだ。嫌味のようだとシャアは感じたが、セイラの表情はむしろ喜びを多く
現していた。
「変わったのね。兄さん。…それはアムロのおかげかしら。だとしたら私はアムロに感謝しなくて
はいけないわ」
 シャアは、それに関してはひとことも弁明しなかった。黙ってアムロを見下ろした。
 変わったと言われるのは仕方がない。自分でも驚くほど心境が変化しているのだから。あれほど
憎いと思っていたオールドタイプたちを、今は何故かか弱くて気の毒な人種だとしか思わなくなっ
ていた。ずっとずっと殺したいと願っていた筈のアムロが、酷くいとおしかった。
 そして、そんな心境の変化を自分は何処かでとても喜んでいる…。
「…今朝の報道で、私のサザビーの残骸が見つかったそうだ。脱出ポッドはビーム砲に打ち抜かれ
て原型をとどめぬほど損壊。これで私の死亡説は確定となったらしい」
「νガンダムも、よ。兄さんたちが出た時は壊れていなかったんでしょう?」
「ああ。…ブライトが何か手を打ってくれたかな。彼にも感謝せねばな」
 セイラは呆れた、と苦笑した。
「ブライト艦長にまで助けて貰ったの? 地球を汚染しかけた張本人が…アムロの人徳にひたすら
感謝するべきね、兄さん」
 私だってアムロが死にかけていると聞かなければ受け入れを拒んでいてよ。と冷たく言うと、言
われたシャアはくつくつ、と笑った。ひとしきり笑って、それからため息をひとつついた。
「…そうだな。私も死ぬつもりだった。我ながら罪深いことをしているとずっと思っていた。それ
でも生き恥をさらす方を選んだのは…アムロが生きていてくれたからだ」
 また、アムロを見下ろした。今度は無意識に手が動いて、アムロの額にかかる柔らかな癖毛を指
先で弄んだ。顔色はまるきり血の気が失せて真っ白に近かったが、あてがわれた人工呼吸器が規則
正しく微かな音をたてていて、それが確かな存在感となっていた。
 意識は、まだ戻らない。容態がもっと安定するまでは人工呼吸器ははずせないので、わざと眠ら
せてあるのだ。運ばれてきたときは出血多量、ショック寸前で呼吸はほとんどとまりかけだったが
いかなる強運の神が憑いているのやら、開胸手術にも耐えてしっかり生き延びた。セイラはそのと
き初めて聞いた兄の囁きに、アムロが助かったという報せよりも驚いたのだった。
<…神よ…感謝します…!>
「で、兄さん」
 セイラは、生真面目に問いかけた。シャアは、さらさらと梳いていた髪から指先を離す。
「ネオ・ジオン総帥をやめて兄さんはこれからどうなさるつもりなの? 返答如何によっては、私
は兄さんを見逃す訳にはいかないのだけれど」
 問いかけは厳しいものだった。妹は、二度と過ちを繰り返さないために、覚悟を決めて兄を始末
することも厭わないと言外に告げているのだ。シャアは、優しく微笑んだ。
 当然、そうくると思っていたのだ。
「…そうだな。お前にはその権利があるだろう。だが、正直今だけは待って欲しい」
 セイラは、ちらとアムロを見た。兄が執着しているのはアムロの存在、それだけだろう。
「少なくともアムロが目覚めるまでは。もう一度、ゆっくり彼と話をしてみたいのだよ」
「──そう」
 セイラはシャアの顔をじっと覗き込んだ。その表情からは、憎しみの炎も尖った光も感じられな
かった。代わりに、ずっとずっと昔に自分の手を繋いでいてくれた優しい兄の面影があった。
 懐かしい暖かさ。
<…アムロが…取り戻してくれたのね…兄さんを…>
 はあ、とセイラはため息を零した。兄を殺す気は、その瞬間に失せてしまった。紙袋の一番下に
忍ばせておいた小さな拳銃を、セイラは取り出して兄に手渡した。
 準備がいいな、と驚きもせず笑う兄の目を見て、セイラはきっぱりと言った。
「…覚えておいてね兄さん。これが、私の良心。いつも、忘れずに持っていて」




 シャアは、妹が用意してくれた一通りの日常品と「エドワウ・マス」の名で偽造したパスポート
などを新品のトランクに詰め込んだ。アムロはともかく、自分の顔はあまりに知られすぎている。
もしものときにはすぐに高飛びできるよう、身の回りは整頓しておく必要があった。
 アムロは、今日辺り目を覚ます予定だった。そろそろいいだろう、と医師が人工呼吸器を外して
麻酔も切ったのだ。シャアは、これからの自分たちの身の振り方をさてどうやってアムロに説明す
るか、そればかりを考えながら支度を続けた。ぱさぱさになった嘘くさいダークブラウンヘアが気
にくわなくて、もっと綺麗に染め直そうと決めた。
「…どうせなら一度、色を落とすか」
 ふと思い立って、新しく買ってある別の染髪料を手に取った。洗面所へ向かおうとして、だが急
に部屋の空気が動いた気がしたので立ち止まる。
 ひょいと寝たきりの筈のアムロを振り向いた。アムロは、いつのまにかぼんやりと目を開けてい
た。起きたのだ。
 シャアは、あわてて手に取ったものを置き直し、アムロの側に駆け寄る。
「…アムロ? 私が判るか?」
 アムロは、だがまだよく覚醒しきってないらしくゆるゆると瞬くだけだった。シャアは苦笑して
まるで幼子にやるように頬を丁寧に撫でてやった。おはよう、というつもりで。
「ようやく起きてくれたな、アムロ。…まだ、少し混乱してるか?」
 まさか、髪の色が変わったくらいでアムロが自分のことを見間違う筈はない。もちろんアムロの
返事は弱々しかったが決して躊躇いではなかった。
「シャア…」
 声はかすれて、殆ど聞き取れなかった。それでもとても嬉しい現実でのアムロの声だった。最後
に心で声を交わしてからというもの、懐かしくてしようがないほどアムロの声が聞きたかった。無
意識のうちに、唇をアムロの額に寄せた。ふわり、と慈しみのキス。
 アムロはぼんやりと、そんなシャアを見つめた。
 その双眸にだんだんと理性の光が戻ってくる。何故、シャアがここに? ここは何処だ?
「君が、起きてくれて良かった。…ああ、そうだ。起きたらすぐに報せるようにと言われていたん
だったな。しょうがない、担当医を呼んでこよう。少しだけ待っていてくれ」
 シャアは、嬉しさに声まで弾ませながらそそくさと部屋を出ていった。



 アムロは、ぐったりと重たい自分の頭を必死でドアの方に向けた。シャアの姿はもうない。
 どうして? 何故自分はこんなところに居る? ちっとも判らない。
<…νガンダムの…コクピットに…いや…シャアが泣いていて…アクシズに連れていかれたのは…
夢じゃなかったのか…?>
 ブライト艦長が自分を捜しに来る気配を感じた辺りから、アムロの記憶は寸断されていた。それ
までの経過もおぼろげで、断片的にしか覚えていない。シャアとなんだか随分言い合いをしていた
気がするのだけれど。
 今こうして目覚めて初めて夢ではなく現実だと判る、あらゆるシーン。シャアが自分のことを必
死で助けようとしてくれた。助けられながら、でもずっと自分はシャアを殺さなければ、と呪文の
ように思っていた。
<…いや、違う…殺せやしない…あんな風に泣かれたら…もう絶対殺せやしないよ…>
 あれほど覚悟を決めた筈の、決意が既に根底から揺らいでいた。本当にあの男は狡い、とアムロ
は唇をかみしめた。
 生き残って…生き残ってしまったのだ! せめて彼を殺せぬまでも自分は助かるまいとむしろ安
心していたというのに!
 生き残って。それでどうする? アムロ。彼は自問した。
 シャアはまた連邦を叩き伏せようと立ち上がるのだろうか? 地球を汚染しなければ収まらぬと
泣くのだろうか。…もう自分には止める力がないのに。止める気力を失ってしまったのに。
 彼を「理解る」ということは、彼を肯定することだ。彼の叫びを知っていて尚今の今まで無視し
続けてきたのは、彼と戦うためだった。そうでなければ引きずられて戦えやしない。しかも、自分
はもうMSも持っていない…きっと彼はいつだって自分のための兵器など容易く用意してしまうだ
ろうに。
「く…そ……ッ…」
 ダメだ。ここには居られない。どうするかなんてあては全然ないけど、とにかくここには居られ
ない。もうシャアとは戦いたくない。シャアと逢ってはいけないのだ。
 アムロは、渾身の力でベッドから起きあがった。胸が焼けるように痛んだが必死で堪えた。腕の
点滴針が邪魔でむしりとる。そのまま立ち上がろうとしてがくりと崩折れ、アムロの身体は床に転
げ落ちた。背中をうちつけた衝撃が恐ろしい激痛となって胸を差した。
「あうッ…!」
 あまりの痛みに、呼吸が一瞬止まる。しばらく背を丸めて歯を食いしばった。
 呼吸が、やたらと苦しいのは何故だろう。アムロはぜいぜいと酷く息を乱しながらそんなことに
気が付いた。痛みのせいばかりじゃない。自分の息づかいがやけに五月蠅く耳につく。それでも、
どうにか這いずって扉まで辿り着いた。ドアノブに手をかけてやっと身を起こす。
 扉の外はしんとしていた。どちらに行けばいいのか判らないまま、アムロは壁づたいにそろそろ
歩き出した。胸の痛みが耐えきれないほど酷くなっていた。
「──アムロッ!?」
 ちょうど、アムロの部屋を訪れようとしていたセイラが廊下の角を曲がってやってきた。アムロ
が壁によりかかりながら倒れていくのを遠くから見つけ、悲鳴をあげる。
「アムロ! 起きたの!? ど、どうして起き出したりしたの!? 兄さんは!?」
「セイラ…さん?」
 アムロは、まさかこんなところで会うとは思わなかった意外な人物の顔に、ほんの微か痛みを忘
れてぽかんとした。もちろんほんの一瞬なので、またすぐに現実の感覚が甦るとアムロは小さく呻
いて床にかがみ込む。セイラはあわてて手近なナースコールボタンを押した。
「セイラさん…どうしてここに…?」
 せわしなく息を乱しながら、それでも根性でアムロは尋ねた。セイラは怒ったように答えた。
「貴方がちゃんとベッドに戻ったら、後で全部説明するわ。それより…どうして抜け出したりした
の? 兄さんが貴方に酷いことでもしたの?」
「兄さん…? ああ…そっか…そうでしたね…」
 アムロは苦笑を浮かべた。
 セイラがシャアの妹だということは、もう知っていた筈だ。14年も前から。初めて知ったあの
時はちょっとショックだったけれど。
「とにかく…お願いだからベッドに戻ってちょうだい。…ね?」
 廊下の向こうから、どうしたんだ、と懸命に呼ぶ声がした。すっかり別人に変装しきっている風
のシャアだ。その声と姿に、アムロはちょっとだけ笑った。笑ってしまったら、なんだか心のどこ
かがすっと楽になった。
                              (2001.7.5) 







…ながすぎ…けだるすぎ…もっと明瞭簡潔に文書きなさい。宿題。(いつまで?)   
我が家のDrが「肋骨骨折・肺挫傷。片肺切除でいいでしょう」と考証してくれたので、
そーゆーことになりました。以後あむろたんは二度とMS戦闘なんて激しい運動はでけま
せん。そーゆー風に仕立て上げたかっただけの、前置きでした。