雨の日







 雨の日は好きだった。
 いつも乾いた大気と抜けるような青空の下、めったに湿り気のやってこないここギリシアで、まれに訪れるそれは乙女座にとって穏やかで優しい微睡みのようなものだった。
 気まぐれに現れ、そして去ってゆく静かな水のカーテン。柔らかく裾を引きずりながら辺りの空気をあっという間に潤していく。
 そんな気まぐれな水のカーテンに柔らかく撫でられながら、シャカはぼんやりと冷たい石段の 片隅に腰を下ろしていた。傘もささず防水服を羽織るでもなく。小宇宙で雨を弾こうと思えばできたけれど、もちろんそのつもりは欠片ほどもなく。
 別に何か用がある訳ではない。誰かを待っているつもりもない。ただなんとなく雨に打たれていたかった。そんな日があってもいいかと、思ったのだ。
 ギリシアの風土は、決して嫌いではない。けれども生まれたときから6歳を数えるまでインドで過ごしたシャカにとって、ギリシャは少しばかり乾燥しすぎている感触はあった。故郷との湿気のあまりの違いにそれを涼しさと勘違いし、幼い時分にはその強烈な陽射しをおもいきり甘く見て幾度も日射病を起こしかけたりもし、己の体調管理くらい出来るようになれ、と、保護者を名乗る射手座に怒られたことさえあった。
 …その射手座は、今はもう居ないけれど。
 ふと、雲行きを探る。黒雲は依然として頭上にたれ込め、もうしばらくはやみそうにない。
 例えば血気盛んな隣人の獅子なぞは雨が嫌いで、洗濯もできぬ、訓練場が泥まみれになる、暗くて鬱陶しい、と文句ばかりつけていた。そんなに鬱陶しければ雨の日くらい訓練をやめればよかろうに、生真面目にでかけて本当に泥まみれになって帰ってくるのを見て、つくづくこの獅子はじっとしていることが出来ぬ奴だ、とシャカはあきれ果てたものである。
 シャカにしてみれば、黙って立っているだけでも身体が洗われていくような雨の感触がわりに心地よい。インドではまさしくバケツをひっくり返したみたいなスコールの中をよく歩いた。水浴びと言っても過言ではないくらいずぶぬれになって。
「…?」
 ───と、その時。
 不意に強い黄金の小宇宙が意識を掠めた。獅子座だ。こちらに呼びかけてきている。
<シャカよ>
「アイオリアか。何用だ」
 シャカはよどみなく答えた。獅子はともすればこちらがあてられて目眩を起こしそうなほどに強い小宇宙で言葉を送ってきた。…獅子め加減を知らぬのか。
<昼をとうに過ぎたがおまえ、メシは喰ったのか>
「朝には。…リア、私がいつもいつも食事をおろそかにするとでも言うのかね」
<何を言う、際限なくおろそかにしているではないか! …いや、ともかく、もうすぐ帰る。おまえ一緒に昼飯食わないか>
 シャカは、ひそかに眉根を寄せた。朝食べて昼も食べるのか。
「…要らぬ、腹は減っていない」
 獅子の小宇宙はしばらく沈黙した。諦めたのか、とシャカが意識を切り替えようとすると、もう一度言葉が降ってきた。今度は少し控えめに。
<…茶だけでもつきあえ。この雨で鬱陶しくて死にそうだ>
 次はシャカが沈黙する番だった。…そうきたか。さて。
 実のところ、シャカには断る理由も気分でもないというのが本音だった。
「ふむ、…よかろう。準備が整ったら呼びたまえ」
 シャカの了承に、獅子の小宇宙は途端、ますます明るくなった。単純明快だ。
<ならばすぐ戻る。待っていろ>
 小宇宙の名残を微かに残してアイオリアの通話は唐突に切れた。シャカはふう、とひとつため息。せっかく雨に濡れていたのだが、いい加減立ち上がらねばなるまい。
 でも。
(…あと、もう少し)
 あと少しだけ、楽しみたい。シャカはすっかり水気を含んで重くなった長い髪を指で軽く梳ってから、ぷるりと頭を振った。




 …雨は正直あんまり好きではない。
 獅子座は、今日も真面目に聖闘士育成の合同訓練に指導者として参加し、通常の三倍くらいも泥まみれになってすっかりげんなりしていた。とりあえず訓練所の建物内にある水浴び場でざっと流し、新しい服に着替えはしたものの、自宮に戻るまでにもう一度濡れていくことを考えるだけで憂鬱だった。宮に戻ったらもう外には出るまい。
「…シャカの奴、またメシを抜いてやしないだろうな…」
 黒色の古びた傘をさしながらアイオリアは十二宮の階段を少し急ぎ足でのぼる。器用な連中は小宇宙で雨くらい弾いていたが、無理すればアイオリアもできなくはないが、そんなことの為に意識を集中するのはごめんだった。傘があるならさせばよいのだ。
 相変わらず無人の白羊宮を抜け、次の金牛宮でアルデバランと軽い挨拶を交わし、また無人の双児宮を抜ける。ここら辺りから巨蟹宮までは、雨の日はかなり憂鬱だった。なんというか、得体の知れない気配が強くて、実は獅子はそういうのも嫌いだった。
 気を紛らわそうと、アイオリアは心話でシャカを呼んだ。瞑想の最中ならばいくら呼んでも返事をしない不精だが今日は即座に返答があった。
<アイオリアか、何用だ>
 いつもながら柔らかな小宇宙だ。アイオリアは半ば感心しながら乙女座の気配を手繰る。さすがに神に最も近いと呼ばれるだけあってその清廉さがいっそ美しい。
「昼をとうに過ぎたがおまえメシを食ったか」
 てっきりまだだ、と言ってくるかと思ったが、意外にもシャカは「朝には」と答えてきた。珍しいこともあるものだ。しかももれなく小言をつけてきた。
<この私がいつもいつも食事をおろそかにするとでも言うのかね>
「何を言う、際限なくおろそかにしているではないか!」
 アイオリアは、苦もなくその小言をはねのけ、続いてめげずに昼食の誘いを口にした。一旦は断ってきたシャカに、アイオリアは食い下がる。こんな日は、特にあの隣人の顔が見たい。雨だろうが風だろうが雪だろうが槍?だろうが、全然おかまいなしのあの男の顔が。
<…よかろう、準備が整ったら呼びたまえ>
 ほっと無意識に息をつく。これで断ってきたらさすがに引き下がるしかなかったが、とりあえず了解してくれたのが本当に嬉しかった。
 実は、獅子の誘いを(それが必死であればあるほど)乙女が断ることなど滅多にないのだが、 当の本人は比較対照がないためそれを知らない。
 さきほどより一層足を速めて、ほとんど小走り状態になりながら息ひとつ乱さずアイオリアは階段を上る。獅子宮まで辿り着いて、さて準備を、と思い一旦はプライベートエリアの方へ足を向けたが、ふと気が急いて処女宮の方を見上げた。
 準備も何も、湯を沸かすだけだ。万端整ってから呼んだのでは茶が冷めてしまう。やはり先に連れ下ろしてこよう。そう決めると傘を片手に、自宮を素通りして更に上に向かった。
 そうして、処女宮の入り口が見える辺りまで昇ってきたアイオリアは唖然としてその場で一旦立ちつくすことになる。
 ぼけっと、何をするでもなく石段の隅でずぶ濡れている乙女座を発見したからであった。




 ここギリシアは今秋から冬に移りつつあり、そこそこ穏やかな雨とはいえ水滴は冷たい。
 アイオリアは心底呆れ果てつつも、一旦は止めた足をせかせか動かしてあっという間にシャカの前に立つ。最上段に腰掛けるシャカの視線が、ちょうど自分と同じ高さになる位置で。
「…何をしているのだ、おまえは」
 シャカは「ああ」と少し顔を上げた。きっちり閉ざされた睫毛の先にまで水滴がついていて、アイオリアはにわかに落ち着かない気分になる。キレイだ、と瞬間思ってしまって。
「雨に当たるのもたまには良いかと思ったまでだが」
 シャカは、まったくいつも通りの平坦な声で応えた。そしてすぐに立ち上がる。
「…早かったな。もう少しかかるかと思っていた」
 支度をしよう、と言って身体の向きを変えかけるシャカの手首を、アイオリアはとっさに力強く掴んだ。掴んだ手首は己に比べれば折れそうに細く、そして酷く冷たい。
「…アイオリア?」
 シャカは、いきなり掴まれて怪訝そうに眉をひそめた。その、いかにも訳が分からなそうな顔にアイオリアはますます落ち着かなくなった。こんなに濡れて。冷えて。
「おまえ、いったいいつからここに居た?」
「…答える義務が、あるのかね」
「心配しているのだ! いつから!」
 よくよく見れば、薄衣一枚きりのシャカの全身は文字通り頭から水を被ったかのようにびしょ濡れだ。相当長い時間雨に晒されていたと判る。
「2刻ほど前だと思うが…」
 シャカは、アイオリアの心配をちっとも理解していないようだ。というより己に対して全くの関心がないとも言える。こんなで無防備に雨に濡れて、身体を悪くするとか少しは懸念したらどうなのだ、とアイオリアはいきり立った。
「風邪を引くだろう! なんでもかんでも小宇宙でケリがつくと思うな! 少しは己の体調管理くらいできるようになれ! 寝込んでも面倒を見てやらんぞ!」
 シャカは、その言葉に一瞬だけ凍り付いた…ように見えた。やや置いて、今度は苦笑する。なぜ心配してやっているのに笑われねばならん、とアイオリアが更に怒りを増加させると、シャカはふんわり笑って言い添えた。
「…君が、アイオロスと同じことを言うから、懐かしいと思ったのだよ」
 ぎく、と今度は獅子が固まる。アイオリアにとってその名前は禁句だった。しかしシャカだけはいつでも変わらずこうして口に出す。アイオリアは少し時間を置いて気分を落ち着かせ、ため息と共に乙女座をみつめた。
「…兄貴がそんなことを言ったっけ?」
「幼い私が日射病で倒れかけたときに、な。しかしそれは慣れぬこの地で、しかも幼い時分だったのだから仕方あるまい」
 当たり前のように言うものだから、獅子はついぼやく。
「日射病でひっくり返ったのは黄金ではおまえくらいだ。というか青銅にすら居るまいよ」
「なに? 君は私を愚弄するのか?」
 途端に怒り出す乙女座を、獅子は仕方なく口ではなく実行で黙らせることにした。ぐいっ、と強引に胸の中に抱き込んでしまう。案の定シャカは対応不能の状況に言葉を無くした。
 弾みで放り出した傘が、開いたままコロコロと数段、石段を落ちて。
「……ッ…!!??」
「体力作りは常に怠るな、ということだ。仮にも聖闘士を名乗るならな」
 まるで怯えたように竦む細い身体を、ぎゅっと強く抱きしめる。きつすぎない程度に加減しつつも、ふりほどけないくらいは強く、優しく。
 氷みたいに冷たい身体に、自分の体温が少しでも移るようにと。
「…はっ…離し…たまえ…」
「こんなに冷えて。すぐ湯を使え。おまえ、絶対風邪ひくぞ、これ」
「…ひ、ひかぬ!」
「ひく」
 呟くように返して、更にぎゅっと強く。シャカが苛立ちのあまりずわっと小宇宙を燃やしたのを感じて一瞬ひやりとしたアイオリアだったが、幸い天魔降伏は降ってこなかった。す、と気配が穏やかになる。諦めてくれたのだろう。
「…湯を使えというならとにかく離したまえ、リア」
「先にあっためてやる。もうすこし」
「…君も濡れているではないか」
「だから、もうすこしだけ」
 深いため息が漏れた。腕の中の肢体が明らかに緩む。冷たい細い身体が、すり、とためらいがちに寄ってきた。水気をたっぷり含んだ淡い金髪が冷たかったが、構わずそれに顔を埋めるようにしてアイオリアは彼を抱きしめた。



      2004/11/07