遥か遠くに見える空






 十二の宮に、本来は十二の守人。
 それが正しい姿の筈だろう、と蠍座は呟く。自分が天蠍宮を預かるようになってから今の今まで十三年間。ただの一瞬だって十二の宮がすべて埋まったことはなかったけれど。
「…いくらなんだって、これは空きすぎだ…」
 誰にともなく文句をつけて、ため息。いつもの定位置である宮の入り口から一番近い石段の縁に行儀悪く座り込むと、陽光みたいな鮮やかな金髪が風に翻る。ふと空を見上げるのももう何千回、何万回と繰り返したのだろう。この聖域に来てから十三年もの間。
「まさか…こんなにみんな、居なくなっちまうなんてな…」
 空が高かった。限りなく遠かった。青かった。
 十三年という年月の中で、自分を含め黄金たちは皆各々に死を覚悟しながら生きてきたのだ、そう蠍座は信じていた。自分も覚悟を決めていたつもりだった。いつどのように死を迎えても後悔はするまいと、いや、むしろ闘い半ばで死ぬことこそが、本望であると思いこんでいた。
 けれど。
「……くそっ…」
 今、傍らに紅い髪をした友が居ない。居ないと何度言い聞かせてもまだ本当はちっとも実感がわかなくて、ただ居ないんだと思うと無闇やたらと空を見上げて「くそっ」と繰り返す。
 闘いの為だけに存在するのが聖闘士であるならば、友が、師が、後輩が、教え子が弊れていくのは当たり前の筈だ。まして、生きるモノ全てに等しく訪れる「死」を、避けることなど出来はしない。そしてその死に方もまた選べるものではない。
 が、理屈ではどう言っても、それでもどうしても、彼が居ないのは納得がいかなかった。
 もしも、遺されたのが友の方で、遺して逝ったのが自分であったなら。彼は今頃自分と同じような理不尽さを感じて空とか見上げるのだろうか。…あの紅い髪をなびかせながら。
「アホくさい死に方しやがって…莫迦かお前は」
 何度も、何度も空を見上げる。無意識に何かを探すかのように、何度も、何度も。
 …変わりなく遠く青い空が、不意に滲んで見えて。
「…莫迦野郎…なんか言ってみろよ…」
 冷たい風が、友の気配を思い出させるようで胸が痛い。自分の傍らから友が奪い去られた、筆舌に尽くしがたい理不尽さが喉元から血を吐きそうなほどに痛かった。
「なんか言えって…文句でも愚痴でも何でも…なんか…」
 数瞬の沈黙の後、その静けさに耐えきれずに拳を振り上げる。苛立ちに任せて力を振るうと、遙か下方にあった石段脇の柱が2本、轟音を立てて崩れ落ちた。



 第一の宮である白羊宮に、十三年ぶりに主が戻ってきていた。
 牡羊座は小さな弟子と共にぐるりと一回り、自宮とその周辺を見回った。本来の主である自分が居ない間も、雑兵たちが回廊とその付近はかかさず綺麗にしていてくれたようで、特に目立った埃やゴミやらは無い。しかしプライベートエリアの方となるとさすがに手を出せなかったのか、そちらは蜘蛛の巣と埃だらけだった。
 彼は今までの十三年間を埋め合わせるがごとく、精力的に働きだした。私室を開け放ち新鮮な空気を入れ、中をすっかり掃除して細々とした私物を運び込んだ。弟子も一緒になってどたんばたんと整理整頓に尽力し、数日のうちにはおおよその体裁は整った。
 引き続いて、牡羊座は教皇宮を整えだした。教皇もとい偽教皇亡き後、十二宮をとりまとめることが出来るのは天秤座の老師であったが、当の老師は五老峰を動かずじまいだったのだ。代わりに牡羊座が代理のごとく使われ、教皇宮に残る神官たちのとりまとめや、細々とした雑務を生き残っている黄金たちに振り分けたりすることになった。牡羊座は表面上は文句も言わず淡々と代理を務めていたが、内心では複雑この上なかった。
 十三年もの間ただの一度も足を踏み入れなかったこの聖域で、何故この自分がまるで教皇代理みたいなことをせねばならないのか。けれど、他の黄金は誰ひとりとして積極的に「例の乱」の後始末をしようとしなかったのだ。あくまでも傍観者として無言の内に自宮に引きこもり、女神も青銅たちの容態が心配だからと日本に戻ったまま、異常なほど人気の失せた十二宮はまるで墓場のように静まりかえり…。
「…まあ…確かにやる気も出ないのは判りますけれど…」
 ぼんやりと呟きつつ、手元の書類に判を押す。この判押しも含めて今のところ黄金全員の交代制ということにしているが、実際は半分がた牡羊座の割り当てだった。早いところ正式に教皇代理をたてる必要があるだろう。…もちろんその際には今度こそ何を言われようとも辞退するつもりの牡羊座であったが。
 ふと、思い立って席を立ち、窓を開けた。遙けき神話の時代から変わらぬ十二の宮、その全景はなかなかに美しい。見事なまでに青い空と乾いた冷たい空気にギリシアの壮麗な建築物。
 こんな風に空があまりに遠いと、意識まで遠くに運ばれていくようだ。
「…我が師…」
 シオン様、と呟いて牡羊座は前代の懐かしい名を口にした。実に十三年ぶりに聖域で口に出すことができた。彼こそが前教皇であり、失われてはならない存在だった。
「すべてを試練と、片づけられますか、シオン様」
 単純に事件の当事者を恨むことだけなら容易い。実際、牡羊座は個人的に双子座の反逆とその罪を許すことが出来なかった。しかし自分が当時故郷に逃げ込み時を待つしか出来なかったのもまた事実で、だから双子座を憎むことで全てを解決する訳にもいかなかった。
 それに双子座は己の罪を悔い自らの命を絶ち、…もう居ない。恨み言のひとつさえ言うことは叶わなかった。…あえて言うなら、その一点が最も許し難かった。
 牡羊座にとって、失われたものはあまりに大きく、取り返しもつかず。
「…これから…まだ…試練は続くのですね…」
 諦めのように、付け加える。
 空はどこまでも遠かった。手を伸ばすことさえ拒むように。



 人馬宮に、灯りが灯る。
 十三年間行方が知れなかった射手座の聖衣が、久し振りに本来有るべき場所に戻り、しかしそれを身に纏うべき持ち主はついに生きて戻らなかった。ただ、その聖衣の存在が十三年の間本物の女神を護り抜いたことは確かだった。
 射手座の弟である獅子座は、ひっそりとひとり、兄のものであった人馬宮を訪れた。
 そして見たのだ。「例の乱」で青銅たちが十二宮を突破した時にこの場所で見つけた、亡き射手座の遺言を。誰へともなく宛てられた、悲痛な、それでいて揺るぐことのない信念を。
「…ここを訪れし少年たち…君たちへ…女神を託す…」
 兄は、決してあの青銅たちの存在を予見した訳ではないのだろう。ただ、誰でもいい、見えざる「真実」の為に命を賭けられる若者に女神の未来を託した。遺言が永遠に閉ざされるかもしれないとは、彼は想定もしなかったに違いない。女神を信じるが故に、その奇跡も信じた。例えどれほどの年月が経とうとも真実は滅びないと固く信じたのだ。兄ならきっと。
「…ッ…俺は……!!!」
 兄は、弟を信じたろうか。裏切り者呼ばわりされ反逆者となってしまった己を、その死を、みせかけに惑わされず弟なら信じてくれると。…もしそうだとしたら、自分はどれほど兄を信じていなかったのだろう。そう思うと熱い涙がこみあげた。如何にしてもとめられるものではなかった。
「兄さん…許してくれ…許して…」
 永遠のようであった、辛い十三年間。黄金であるという地位だけがかろうじて獅子座を守ったがそうでなければとっくに聖域から追放されてもおかしくなかった。誰もが疑いの目で自分を見、そんな視線に毎日晒されながら必死で自分の正義を貫いてきた。だが、そんな日々さえも、この遺言を見れば幻のように流されていく。
 誰にも理解されず、たったひとり、なによりも大切なものを守り抜いた兄。息絶える瞬間まで女神を案じただろう射手座。それを、何一つ知ろうと努力もせずただ自分の場所を確保し続けた己はなんと甘くぬるい生き方をしてきたのだろう…。
「兄さん…」
 輝ける射手座の聖衣の前で、獅子座は泣き崩れた。今更、どう償おうともどうにも出来るものではなく、冷静に考えれば当時7歳の幼さで何が変えられたとも思えないのに、獅子座はひたすらに己の無知さを嘆いた。…嘆かずにはいられなかった。



 乙女座は、死んだ聖闘士たちが眠る慰霊地でぽつねんと立っていた。
 いつもはぴったり閉ざしたままの双眸を開き、ひたと遠い空の彼方をみつめる。いつもと変わりない筈の見事な蒼穹、だがその向こうに厭な気配を微かに感じていたので。
 ここ数日、かかさず同僚たちの墓に花を手向けに来るのが習慣だった。何事にも動ぜず孤高を保つのが常の乙女座が死人に花を手向けるなぞ、普段なら有り得ない。墓の下の同僚たちがもし口を聞けたなら異口同音に「不気味な挙動はするな」と狼狽え文句を言ったことだろう。
 実は、乙女座にしてみれば花を供えに来るのが本来の目的ではなく、もっと別の危惧があってわざわざ墓地までやってきているのだが、当の本人は黙し、決して誰にも語らなかった。
(いつにも増して陰鬱な聖域だ…)
 乙女座は、ひとりひそかに嘆息する。これから聖戦が始まろうというのにこれほど戦力が削られしかも生き残ったメンバーは揃いも揃って喪中顔だ。当然といえばあまりに当然だが、乙女座にしてみれば生き死にのひとつひとつにまでかかずらっていたくなかった。
 どうせ聖戦で全員、死ぬのだ。早いか遅いかの、違いだ。
 八識まで目覚めてしまえば冥界で厭でも逢おう。恨み言も悔いも感謝の言葉も、そのときにこそのたまうがいい。聖闘士とはまこと、因果な宿命だ。だが定めとあらば従わねばならぬ。
 一輪ずつ、丁寧に墓のそばに置いてゆく。花は沙羅双樹園で摘み取った、いわば自家調達の草花ばかりで、儚く、小さなものだった。乙女座にとってはその花は、手向けというより決意の現れであった。…聖戦へ向けての。
 ふわ、と風が舞う。と同時に馴染んだ気配が大気に混じって乙女座は振り向いた。獅子座がぼんやりとした顔で歩み寄ってくるところだった。
「兄さんの…墓石の傍に花を置いてくれたのは、おまえか」
 乙女座は無言だった。そしてそれが肯定の証だった。獅子座は微かに破顔し、やがてそれはすぐに泣き笑いになった。
「ありがとう…」
 乙女座にしてみれば礼など述べられる筋合いではなかったのだが、やはり黙って受け取った。獅子座が実兄に対して抑えがたい後悔と懺悔の念でいっぱいになっていることを感じ、そのあまりにも痛々しい小宇宙に心が軋んだ。
 同情…いや共感に近い…。
(…素直に喜べないのは…自己嫌悪か…リアらしいな…)
 射手座の汚名が返上されたことに関しては、乙女座は憚ることなく喜べた。射手座は幼い時から尊敬の対象だったからだ。…しかし一方で同じように尊敬の対象であった筈の双子座の罪が明らかになったことには、説明し難い苦渋を感じた。それを暴けなかった未熟な自分もさることながら、仮にも神である「女神」の存在がそれほどに危ういという、感じてはならない矛盾を痛いくらいに感じてしまったのだ。
「もしかして、良く来てるのか、ここに」
 乙女座は、これにも無言で応えた。獅子座は嘆息した。意外だったからだ。
「最近ちっとも処女宮でみかけないから、何処にいるかと思っていたが」
「瓦礫の山を雑兵どもに片づけさせているのだ。手伝わぬなら何処か他の場所で時間を潰せと無礼にも連中がのたまうので、散策がてら聖域を一巡りすることにしている」
 本当の理由ではなかったが一応そういうことにしておく。へえ、と獅子座が感心すると、そこに更にもうひとり現れた。蠍座だ。
「…花…が…」
 友の墓に、そこいらで摘んだみたいな(その通りだが)小さな花が添えられていることに気が付いた蠍座は驚いた風に乙女座と獅子座を見た。ほと、ほと、といかにも億劫そうに近寄ってきて、いつもの蠍座らしからぬ陰鬱な小宇宙のまま、じっと二人を見た。獅子座は軽く手を振った。否定の意味で、だ。
「花を手向けたのは俺じゃない、こっちだ」
 更にびっくりして蠍座は乙女座を見た。乙女座はぷいとそっぽを向いた。肯定の意味だった。
「…すまん…」
 蠍座にしてみれば晴天の霹靂だったのだ。
 友の死を確認するのが厭で慰霊地は好きではなかった。やるせなくて何度も墓を訪ねたが、結局言いたい放題愚痴だけ言って去るばかりだった。とても花なぞ供える心の余裕はなかった。花を見て、初めてそうすることの意味を思い出した。自分も花を持ってきてやりたい、と思った。
 …花を、大好きだったあの友に。別れの為ではなくただその愛おしさに向けて。
「花…俺も…」
「──そうだな、そうしたまえ」
 乙女座は穏やかな口調で言って、またひたと空を見上げた。その挙動に残る二人ははっとして、そうして初めて乙女座が目を開いていることに気が付いた。
「シャカ…おまえ…目…」
「なんで開いてんだ…」
 乙女座は、それには答えなかった。代わりに、遠くの方からまたひとり、やってくる人間を見つけて嘆息してみせた。
「今日は満員御礼だな。…十二宮が完全に空だ。もっとも女神がおられないのだから守護の意味もさして無いが」
 牡羊座と牡牛座が連れ立ってやってくるのが二人にも見えた。二人はそれぞれ何かを捧げ持っていた。墓に供える為に来たのだろう。
「おや…花が」
 前教皇シオンの名が刻まれた無造作な形の墓石の傍に花が置かれているのを、牡羊座は意外な目で見る。その花の脇に、何か特別な意味があるらしい鋼の欠片を置き、既に黄金の内の三名までもが揃っているのを見て微かに苦笑した。
「アルデバラン。今日はここで何やら会合でも予定しましたか」
「いや、俺は覚えがないぞ」
 牡牛座は知り合いの誰かにやはり何かを供えてから、皆の方へと寄った。こんな慰霊地で黄金聖闘士全員が人知れず集合する図、というのは恐ろしく奇妙だった。
「花を供えて下さったのはシャカですか」
「よくわかったな」
 乙女座が返答を無視する間に獅子座が答えた。牡羊座は軽く笑って、それから相変わらず超然とした風の乙女座をまじまじ見つめた。双子座の墓にも、山羊や魚、蟹座にさえ花が置いてあるのを見た。誰にも平等に花を置くのであれば、乙女座以外には有り得ないと知っていた。
「あなたが死者に花を手向けるような感傷を持っていたとは驚きです、シャカ」
「おいおい、鉄面皮みたいだけどコイツ割とイイとこあるんだぞ」
 蠍座が牡羊座の仮借ない言い方にちょっと呆れて口を挟めば、獅子座も同調して。
「ムウよ、お前は礼も言えんのか」
 乙女座にとってみれば礼なぞ要らないのだが、牡羊座は悪びれもせず返答した。
「勿論感謝していますよ。ただ、そういった感傷事を昔は嫌っていたようだったので」
「その通りだ、私は感傷は好かぬ。それと、花をくれてやるのとは別だ」
 花でも持ってこなければ墓地に足を踏み入れる理由にならないと思ったまでのことだ。が、そんな理由を語ってきかせる道理は乙女座にはなかった。
 聖戦は、近い。…だが、まだ少しは遠いのかもしれない。
「昔は、っていったいいつのことを言っている」
「十三年前ではないことは確かですよ、シャカは時折ジャミールに顔を出してくれましたし」
「そうなのかシャカ!? 初耳だ!」(蠍)
「…ええい、そうであってもなんだか知った風に言われるのは癪だぞ!」(獅子)
「アイオリア…まあそう嫉妬せずとも」(牡牛)
「嫉妬? 嫉妬ってなんだ!」(獅子)
 乙女座は、目の前の騒ぎをまったく無視して、また空を見た。
 遙か遠くに見える空。厭な気配は、今は殆ど感じない。ただひたすらに、いつも通り、呆れるほど
眩しく青く、…遠い。


「…今はまだ束の間の休息、か…」
「なんだって?」
 乙女座の呟きに、獅子座がまっさきに反応。しかしながら相変わらず乙女座は返答を拒んだ。
「下らぬ舌戦を繰り広げる元気があるのなら、その無駄に有り余っている体力を十二宮修復に振り向けたまえ。どの宮も燦々たる有様ではないか」
 言って、さらりと踵を返す。今日の「墓地確認」は終了した。これ以上居る意味は無い。
 乙女座の言葉に一同は呆れつつも、この場を去ることには同意した。ぱらぱらと各々が好きなように解散し、方向だけは皆同じに歩き出す。
 その誰もが、示し合わせた訳でもないのに、時折足を留めては皆一様に空を見上げた。
 あまりに見事な蒼穹で、その鮮やかさが切ない心に一層染みるせいかもしれなかった。



           2004/12/27