出会い



                                             



 小さな、女児に見えた。
 細く頼りなく白く、そしてとびきり可愛らしい幼女に。
 そして、彼女?を見た瞬間、彼は多分一生醒めない恋をしたのかも、しれない。




 来るべき聖戦に備えて、聖域では十二宮の守護者の新たなる選定を行う時期に入っていた。
 前聖戦から二百三十余年。
 予言ではまた再び、次なる聖戦がほど近いことが示されている。故に女神降臨もすぐであろう、と。
 女神が降臨すれば十二の宮には必ず守護者がいなければならず、またその為の宿命を持つ者たちも必ず現世に存在している筈だった。それらは神の意志によるものであり、否定は有り得ない。長らく空位のままだった十二星座のうちのいくつかも、聖戦のために必ず全て埋められることになるだろう。
 現在十二星座の中で守護者が既に決まっているのは前聖戦からの生き残りである天秤座(教皇と同じく老齢の為引退がささやかれたが、天秤座の聖衣がそれを拒んだ)、それから双子座、射手座、それからまだ聖衣を拝領してから間がない山羊座、魚座、蟹座の6星座である。残りの半分のうち、どうやら見込みがありそうだと囁かれているのは水瓶座、牡羊座の2つ。獅子座と牡牛座と蠍座も候補者が絞り込まれた。それら残りは 「予言」のタイムリミットを切れば、どれほど幼齢であってもとにかく先に聖衣だけでも継がせてしまおうという会議が一部で成された。
 一番最後まで候補者が見つからなかった乙女座が、インドの山奥で発見されたと報告されたのは、女神がこの世に降臨することになる日のちょうど1年前だった。
「…見つかったんだって?」
 勢い込んで教皇の間に駆け込んできたのは射手座のアイオロスである。
 獅子座候補のアイオリアの実の兄であり、その実直・誠実さを高く評価され、双子座サガと共に次期教皇だろうとも噂されている。
「まあ落ち着け。教皇がいらしてから順を追って話そう」
 その、並び噂されるサガが先に教皇の間に辿り着いて、主の到着を待っていた。アイオロスは常にない自分のあわてぶりに苦笑いする。
 つい先ほど五老峰の老師からテレパシーで連絡が入った。詳しいことは教皇の間に行きサガに聞け、と短い一方的な通話で、アイオロスは訓練生の指南もそこそこに、とりあえず飛び込んできたのだ。
「待たせたな、ふたりとも」
 やがて教皇がやってきて、二人は軽く頭を下げた。「報告を」と言われ、サガは神妙な面もちで語り出す。
「…教皇のご用命通り、候補者の存在を確認して参りました。生まれは乙女座。まずは間違いないだろうと思われます」
 教皇は頷き、アイオロスを振り返る。
「数日前、不穏な小宇宙がインド北部に存在する、と、サガから注進があったのだ。それで当人に確認してもらうのが手っ取り早いだろうと思い、即座に赴いてもらった」
「サガが?」
 サガも頷き、しかしやや苦い表情で続ける。
「恐ろしく強大な小宇宙を感じました。しかも今の今まで探索にまったくひっかからなかったのは意図的に気配を封じていた様子です。既にそれだけの能力を備えているという証です。…教皇、その子は既に「第七識(セブンセンシズ)」に目覚めていました。いえ、ひょっとすると八識までも…」
「…まさか、有り得ぬ」
 教皇もただならぬ表情で呟き返す。
「その子、と言ったな。まだ幼子か?」
「あ、はい。5〜6歳…くらいでしょうか。身なりは酷かったが美しい子供でした。それは直接ご覧になって頂ければ」
「そうだな。全ては逢ってからだ。で、どこに連れてきておる?」
 サガは、更に苦渋の表情を浮かべる。
「申し訳ありません。今日・明日ではまだこちらに連れてくることはできそうにありません。しばしお待ちを。いずれ必ず御前に連れて参ります」
 なんだ、まだ来ていないのか。アイオロスは口に出しては言わずにサガをみやる。それにしても何故そんなに辛そうな顔をするのだろう。
「そうか、まだなのか。…まさか、聖闘士を拒んでいるのか?」
「…判りません。説明は一応しましたが、そもそも説明自体が判っていないかも。どちらにせよ、乙女座の聖衣がそれを決めるでしょう」
 聖闘士は俗世を捨て女神ただひとりに仕える。女神の御為に命を捧げるのをかけらでも惜しんではならない。聖衣に選ばれ聖闘士となるのは果てしなく名誉なことだが、同時に惨い運命を持たせられることでもある。
 しかも、この非常時ではおそらく聖衣の決定を当人が拒むことは許されまい。アイオロスはぼんやりとそう感じ、ふと切なさを感じた。
 幸い自分は望んでこの道を選んだ。悔いはない。歳の離れた弟が同じ黄金として入るのがいささか可哀想な、それでいて名誉な気もしたが、弟とて無知ではない。
 が、その子は多分まったく聖闘士としての予備知識もないままこの聖域に放り込まれることになるのだ。それは…相当な試練だ。
「…頭のいい子供だとは思います。一からきちんと説明すれば、己の役割を必ず認識するでしょう。…ただ、どうも、あまりにも…」
「あまりにも?」
 サガが言いにくそうにつまるものだから、教皇はたまりかねて繰り返した。
「……想像を絶する暮らしをしていたようで…御前に出せるようになるには少し、時間が要るかと」
 それ以上はサガは言わなかった。教皇はため息をついた。
「で、その子は結局今、どこにおるのだ?」
「…とりあえずは五老峰に」



 それから一週間も経ったころか。
 アイオロスは新米たちの訓練の最中、サガに呼び出された。
 例の乙女座の子供を迎えに行くので共に来て欲しいと言う。
「今からか?」
「今からでもいい」
「…お安い御用だ、と言ってやりたいところだが、見ての通り身体が空いてない。もう半日待ってもらえれば付き合うが」
 サガはしばし躊躇したが、やがて頷いた。
「日が暮れる前に向こうに着きたい。早めに切り上げてくれ。待っている」
 そしてこちらの返事も待たずに消えていった。アイオロスは奇妙な顔でその背中を見送る。珍しいものだ、五老峰なぞテレポートを習得した聖闘士ならさほどの手間もなく行けるのだから一人ででもちゃっちゃと行けばいいのに。
 …それとも、まさか一人で逢うのを恐れてでもいるのか?
(まさか、な…)
 兄と先輩聖闘士とのやりとりを遠くから眺めていた弟のアイオリアは、兄が同僚から離れて戻ってくるのを興味津々の瞳で待ちかまえた。
「兄さん! なに、乙女座のこと!?」
「他人の会話を盗み聞きか? リア」
 アイオロスがため息をつくところを、アイオリアは勢い込んで言う。
「だって、仲間になる相手だろ。聖闘士に。気になるじゃん」
 なあ、と振り向くと更にカミュ、ミロ、ムウ、アルデバランが居た。黄金候補の年少組である。彼等は黄金聖衣の候補として決まった後は全員が一時的にアイオロスの指導グループに振り分けられ、それぞれの師匠からは一旦離れていた。どんなに幼くても宮を任せるための緊急処置として、まず聖域に集合させてあるのである。
「俺も気になるよ。可愛いって聞いた! 女の子?」
「容姿は能力には関係ないでしょ」
「関係ないならなおさら、可愛い方がいいよなあー」
「なー」
「俺は別にあんまりどうでもいいや」
 アイオロスは笑い出す。好奇心旺盛なのはいいことかもしれないが、果たしてこの年少たちは新しい仲間を受け入れてくれるのだろうか。
「そういえば、男か女か聞いてなかったな。サガは綺麗な子としか言わなかった。あいつが綺麗というんだから相当とは思うが…」
 言いながらなんとなく彼等を見渡す。大柄だがごく普通の顔立ちのアルデバラン、それから自分に良く似た弟は(兄莫迦で可愛いとは思いつつ)外して考えても、カミュもミロもムウも相当整った顔だ。
 既に決まった十二星座にもとびっきりが一人居た。これで男でいいのかという容姿の魚座だ。こうして考えると女神は面食いなんではないかと勘ぐる。己の御代にタイプの違う美形をうなるほど用意しているのだから。
「ねえ俺らと同じ年くらいなんだろ、俺らの組に、入る?」
「どうかな。それは教皇やサガとも良く相談しないと。…さあ無駄口は終わりだ、チビども。今日のノルマの続きをやれ!」



 老師は、廬山の瀑布の前に座して静かに時を待った。
 傍らには、同じく座して目を閉じる、小さな子供。薄い金の髪をした少女のようにも見えるが、男の子である。
 最初サガがインドで発見したときはボロ雑巾のようで、あまりの汚さに目を背けるほどだったが、今では清潔な布を身体に巻き、本来の肌の色を取り戻していた。
「…ほ、来たな。遅いではないか」
 老師が呟くと同時に、空間が割れて中から目映い黄金色の光が現れた。強い力を感じたのか、子供も無表情のままついと顎をあげる。目は開けない。
 黄金の光はすぐに人型を取り、やがて黄金聖衣を纏う青年二人の姿になった。
「老師、お待たせして申し訳ありません」
「サジタリアスのアイオロス、同行致しました」
 サガとアイオロスが、それぞれ礼をする。うむ、と頷き、老師は傍らの子供にむかって顎をしゃくってみせた。
「聖闘士の成り立ち、聖域の構成についてはワシからよくよく話しておいた。彼は、行くと答えてくれたよ」
「…それは、良かった」
 さあ、と老師の声が促したのは子供へだったか、それともサガにだったか。
 サガは、だが苦しいものに差し止められたかのように硬直した。眉をひそめ、アイオロスの方に助けを求めるように視線をやる。…近寄りたくないのか?
 子供は、その間にゆっくり立ち上がった。
 アイオロスは戸惑ったが、サガがなかなか動かないので意を決して自分が進み出ることにした。こんな小さな子に初めましての手も差し伸べられないようでは黄金聖闘士どころか普通の大人としても失格だ。
「やあ、初めまして。俺の名はアイオロス。君の名前を、始めに聞いてもいいかい?」
「…シャカ」
 掠れた細い声が答えた。やはり目は開けなかった。
 不思議な子供だ、とアイオロスはまず思う。なにか、尋常ならざるものと対峙しているような、ぴりぴりする緊張感。
「シャカ。俺たちは君を迎えに来た。聖域に案内しよう」
 そうして手を触れた。…途端、ものすごい衝撃が指先から弾けた。


「シャカよ。小宇宙を鎮めよ」
 老師の穏やかな声に、辺り一帯を圧迫していた子供の気配がゆるく縮んでいく。
「な…んだ…いまの…」
 意識が永劫の彼方に吹き飛ばされた気がした。果てしない時間が経ったような。だが目を開けばまたたきの時間しか過ぎていない。
 …生まれたての小さな赤子を抱きながら、血にまみれている自分。その痛み。
 とてつもなく厭なものを見た…気がする。
「死を、本当に、恐れていない人間は、少ない。私も、よく、わからない」
 シャカは不気味なほど静かに、突然呟きだした。
「でも死は終わりではない、という。それも、難しい」
 アイオロスは恐ろしいものを見つめる目でシャカを見る。子供の持つ声音ではない。
これは、絶対に。
「未来は、書き換えが、可能か。否、すべては決まっている」
「シャカ」
 老師がたしなめるように名を呼ぶ。余計なことは口にするなという圧力だ。老師もまた、この一週間の間にこの子供が不可思議な言動を繰り返すのを幾度となく見た。
 シャカは、軽く首を傾げた。そして、初めて目を開けた。
 青い水底のような、最高級のサファイアのような見事なロイヤルブルー。
「今のは、君が俺に見せた幻覚か?」
 シャカは首を振った。
「私の意思ではない。そっちが…呼んだ。ただ、白紙の場合も、ある」
「白紙?」
「未来」
 言って、シャカは小さな手をぺたりとアイオロスの手にくっつけた。それきり黙ったのでアイオロスはどきまぎしながらも小さな彼を抱き上げる。もうおかしな現象は起こらなかった。
 サガはそれをずっと陰鬱な表情で見守っていた。彼もまた、あまりよろしくない幻覚をみせつけられたのだろうと、アイオロスはやっと気が付いた。



 聖域まではほんの瞬きひとつの間だった。問題はその後だった。
<すまないが、私のところでは幼子を預かるゆとりが今はない。もし私かお前のどちらかが引き取ることになったら、お前に任せたいのだが>
 出かける直前にサガが言ってきた言葉だ。
<お前のところにはちょうど同じくらいの歳の弟もいるだろう。頼む。忙しいのは判っているが、お前にしか頼めぬ>
<まあ…ひとりが二人になったところでそんなには手間じゃないとは思うが…。どうしたんだ、いつも神のように慈悲深いと民たちに慕われるお前が>
<だからだ。不慣れな私が預かって、ただでさえ右も左も判らぬ幼子を更に困らせるのも忍びない。ちょうど今チビたちの組を預かっているのだから、適任だろう>
 サガが、珍しいほど言葉を濁しつつも必死で頼み込んできた様子を改めてアイオロスは思い出す。何事にも毅然として、友たる自分に雑事を頼んでくるようなことなど、今までほとんどなかったのに。
「…さあ、ついたぞ」
 アイオロスは、聖域の入り口で抱えていたシャカを地面に下ろしてやった。シャカは目を開けてじっと、くいいるように景色を眺めた。
「大気が、かわいて、つめたい」
「そりゃまあ、インドと比べればなあ…」
 サガはそんな二人を見て、小さくため息。
「私は一足先に教皇にお知らせしよう。後からゆっくり来てくれ。連絡を待つ」
 風のように去る友をアイオロスはまた止める間もなく見送った。だが、その傍らで、シャカが穏やかに呟いた言葉が耳に入って、凍り付く。
「かわいそう…」
 何だって?
「なに…誰が?」
 思わず鸚鵡返しに尋ねる。シャカは、もう目を閉じていた。
「はっきり分かれすぎていて、互いを殺す」
「だ…だから、誰を、誰が?」
 シャカは、ゆるゆると俯いた。
「ジェミニ」
 兄さん!と遠くから呼び声がした。その声に、まるで幻の世界から現実に引き戻さたようにぼんやりと振り向く。弟が、いっさんに走ってきた。
「兄さん! お帰り! その子? 乙女座」
 アイオリアは、息せき切って駆け寄ってきたが、シャカを間近で見るなり豆鉄砲をくらったみたいな顔になった。一瞬おいてみるみる赤面。
「あ、ああ、ただいま。そうだ。一足先に紹介しよう」
 シャカの頭を、弟にするようにぽんぽんと撫でた。ちょっとびっくりしたような震えを指先に感じたが、これは多分他人との触れ合いに慣れていないせいだろう。
「シャカ、だ。お前と多分同い歳だ。もしかしたら、これから俺ん家で世話する。そうしたら毎日一緒だ。仲良くな」
「うそっ!」
 シャカのかわいらしさに脳天直撃でくらくらしていたアイオリアは、早口で告げらた兄の言葉を順ぐりに咀嚼し、浸透しきったところで声をあげた。
 一緒に、暮らす? こんな可愛い子と??
「なにがウソだ。失礼な。なあ?シャカ? これは猛烈に行儀が悪いが俺の弟で、これから君と一緒に生活し、訓練する。仲良くな」
「…名前、は?」
 シャカは、単調な声音で尋ねた。さっきのアイオロスとのやりとりをリピートするつもりらしい。アイオロスは頷き、弟に目配せした。
「ほら、名前は、だと。自己紹介くらいしろ」
「ええっと…ううー、と…、あ、アイオリア!」
 シャカは次いで自分の手を見た。それからアイオロスを。手と交互に見比べられ、意図するところが見えた。さっき握手を求めたっけ。大丈夫かな、弟も不気味な幻覚見せられたりしないか?
「握手、だそうだ。リア」
「わっ! うん! よ、よろしく!」
 そうして手を繋いだ瞬間、アイオリアの表情が一瞬変わったが、劇的なものは何もなかった。兄はほっとして、もう一度くしゃりとシャカの頭を撫でた。
 なんだ、大分変わった子だがなんとかなりそうじゃないか。
「さあて、教皇の間までは徒歩だ。これが面倒なんだ。すまないが、付き合ってくれるな。シャカ」



 兄と、新米が連れだって十二宮の方へ行くのをぼんやりアイオリアは見送る。
「か…わいいー……」
 細くて白くて、めちゃくちゃ可愛かった。頼りなげだった。
 現時点でアイオリアはシャカを少女だと信じて疑っていない。兄が帰ってきて家に入る頃には真相が明らかになるだろう。その騒ぎはまた別として。
「乙女座…かあ…」
 さっき握手したとき感じた、不思議な予感。
 形になるようなものではない、ただふわふわとしたオーラのような。…ただひとつだけ判ることは、決してそれは不快なものではない、ということ。
 だから、きっと仲良くやれるだろう。きっと。
 今はそれだけで、いい。



「ミロたちに、教えてやろうっと!」
 アイオリアは小さな身体に思いっきり力をみなぎらせて、走り出した。













幼少期!! ハァハァ(危険)