約束



                                             



 「射手座、造反。  女神殺害未遂、及び脱走」

 そのニュースが聖域全体を震撼させるころには、既に射手座アイオロスは息絶え、生まれたばかり
の赤子である女神の化身は、とある財閥総帥の手に渡っていた。
 だがその真実を知る者は、その時点では一人しか居ない。
 ───そのたったひとりが、だがこの事件の、すべての源である…。




「…ウソだ」
 アイオリアは、掠れた声で呟いた。他に何か色々言おうと思っても、頭の中があらゆる雑多な気分
でごっちゃになって、違う言葉は出なかった。
「ウソだ」
 もう一度繰り返す小さな黄金聖闘士に、位を持たぬ兵士である男は形ばかりの礼を取りつつも、丁
寧に同じ報告を繰り返した。
「アイオリア様の兄君、サジタリアスのアイオロス様は女神及び聖域全体への反逆罪として、今日付
けで黄金聖衣の位を剥奪、死罪となりました」
 兵士は、震える少年の手に、教皇からの書状を渡す。それを機械的に受け取りながらアイオリアは
兄アイオロスの小宇宙が半刻ほども前に大きく爆発し、消えていってしまったのを茫然と思い出して
いた。
 その時に、とてつもなく寒い予感はしていたのだ。兄の身に何か恐ろしいことが起こったことを。
その後あらん限りの力で兄の小宇宙を探ってはみたものの、どこをどう探しても兄の気配はカケラも
なかった。まさか異次元にでも飛び込んだのかと思ったりもしたが、考えたくない可能性ばかり頭の
中を侵食していて、結局なにもかもを放棄し、時を待つのが精一杯だった。
「アイオリア様。書状を」
 兵士に促され、アイオリアはまたしても機械的に書面を開く。だが、そこに書いてある命令が意識
に浸透するには相当の時間を要した。あまりにも想像外の言葉がそこには綿々と連なっていた。
 元・射手座アイオロスの女神殺害未遂についての、荷担疑惑。
 その疑惑が晴れるまで、自宮にて謹慎処分。
 指定期日にそれらの釈明をするべく、教皇宮に赴くこと。
「なんだ…コレ…どういうことだ…」
「釈明裁判は、来月の一日と定められました。それまではアイオリア様には、必ずこの獅子宮にてお
待ち頂けますよう」
 兵士は言うだけ言って、後はアイオリアの返事も待たずに立ち去った。アイオリアはそれでも茫然
と書状を握ったまま、長いことその場に凍り付いていた。



 明けて、翌日。
 獅子宮のプライベートエリアでぽつんと座っていたアイオリアの処に、ふらりとシャカが訪ねてき
た。彼はアイオリアとお揃いでもらった簡素なシャツを珍しく纏い、黄金聖衣は自宮に置いてきた。
「…リア」
 アイオリアが謹慎処分になったことは、勿論シャカは知っている筈だった。それどころか、今は教
皇の命令がない限り獅子座と接触することは禁じられている。だがそんな命令はそよ風のごとく無視
し、シャカはいつも通りにやってきた。
 僅か一年程度の期間だが、共に暮らした兄弟のような相手、互いの宮に分かれて暮らすようになっ
ても頻繁に行き来していた。シャカにとって未だ気を許せる相手はアイオロスを除けば獅子座の彼し
かいなかったのだ。
 シャカは、アイオリアが魂の抜けたような様相になっているのを目を閉じたまま確認し、黙ってそ
の脇に座った。彼の小宇宙がかつてないほど荒々しく、怒りと哀しみと絶望感に満ちているのが判っ
た。かける言葉はみつからなかった。もっとも、通常の状態であってもシャカが自ら言葉を発するこ
とというのはそう無いのだが。
(…今は…嵐…いずれ止む…)
 アイオリアは、シャカが隣りに座ってもまるで関心を持たなかった。そのくらい茫然としていた。
激しい葛藤が彼の心の内で渦巻くのをシャカは間近で感じた。
 シャカにとっても、アイオロスの叛乱は寝耳に水だった。幼く、世間というものをまるで知らない
彼には大人たちの好奇溢れる噂など、単なる雑音にしかならない。だが、裏切り者だという「報告」
は、何事にも動じないシャカでさえも衝撃を受けたのだ。
 判らない。…判断できない。
 神仏は、こんなとき何の役にも立たない。物事の大いなる真理に辿り着くためにはいくらでも導き
の声を投げかけてくれるのに、こういった現実での雑事に白黒をつけてくれるような便利なことは、
何一つなかった。
 神仏というものは、そういうものなのだ。あらゆる「現実」に対し、己の目と耳とで確かめるしか
ない。
(…当たり前の真理とはいえ、危機に直面すればやはり少しうらめしいものだ)
 シャカはぼんやりとそう思い、また隣りでうちひしがれているアイオリアをちらりと確認する。そ
してふと思い出す。初めてアイオロスに逢ったときの幻覚を。
(…あれは…あの時…傷だらけで…彼は…)
 あの時の彼の心は澄んでいた。それは間違いないと思いたい。だが何故聖域に反旗を翻したのか。
今はまだあまりにも判断材料が少ない。みせかけにとらわれて、真実を見失うことは避けねば。
 そうだ。「事実」が必ずしも「真実」であるとは限らない…。
「…シャカ」
 やっとアイオリアが口を開いた。彼はひどく機嫌が悪そうで、あからさまにシャカを邪魔者のよう
に睨んできた。こんな彼は初めてだった。
「何でここにお前が来るんだよ。来んなって言われてるんだろ、教皇に」
 シャカは動じなかった。さらりと何でもないことのように答える。
「今日は、私が獅子宮に来る、という約束だったから」
「………ッ…」
 3日に一度、お互いの宮に寄ろう。そう決めたのはアイオリアの方だった。別に何をどうするとい
う訳ではない、ただそうでもしないとシャカが本当に一人でやっていけるかどうかアイオリアは心配
だったのだ。正式に黄金聖闘士に任命されたからには子供のような甘えは許されないと判っていても
せめて少しでも近くに。
 …そして、シャカは教皇の命令よりもアイオリアとの約束を優先した。
「だが、もし、リアが、私に居て欲しくないのなら、帰った方が良いのだろうか」
 あくまでも、帰るとは言わず帰った方が良いかと相手に尋ねる丁寧さ。微妙にズレていて、シャカ
らしいといえばシャカらしい。
 アイオリアは、ようやく少しだけ我を取り戻してきた。
「──あのさ。なんか、オレ、目の前の全部がウソみたいに見えるんだ」
 言葉と同時に涙があふれ出した。それでも構わず更にしゃべる。
「オレ、…オレ、何もわからなくなってて…お前の声とか、全部遠くて…」
 誰よりも何よりも信頼していた、尊敬していた兄。その兄が裏切り、聖域を汚して死んでいったな
ど、いったいどうやって理解しよう? 何かの間違いだ。いや夢だ。そう考えてしまう自分をアイオ
リアは止められなかった。
 教皇の間で弁明する気力は、今のところどこをどう絞っても無い。
「リア」
 シャカは難しい顔で逡巡していたが、やがて決心したのか口を開いた。
「真実は、己の中にこそある、という」
「…どういうことだよ、それって」
「結果とは、変えられないもの。厄介なもの。私にも、判らない」
 それからちょっと黙って、また続けた。
「リアは、リアを信じるべきだと…思う」
 アイオリアは驚いて、シャカを凝視した。シャカは飄然と相向かっていた。



 また3日後、シャカはアイオリアの宮に来た。
 本来ならアイオリアの方から処女宮へ赴くべき約束の日だが、謹慎の解かれていないアイオリアは
自宮から出られない。いや、出ることは可能だろうが、ただでさえ「裏切り者の弟」という噂が聖域
全体に浸透し始めているのに、それを増長させるような振る舞いは、アイオリアには出来なかった。
 兄のことを信じたくても信じ切れない。…だが、裏切りと決めつけることも出来ない。その葛藤を
日々持て余すアイオリアにとって、シャカの来訪は良くも悪くも新鮮であった。…だが。
「約束は、決して違えてはならぬとアイオロスが」
 シャカの言葉は、激しくアイオリアを怒らせた。兄の名は今や彼にとって禁句そのものなのだ。
 判った風なシャカの涼しい口調で兄の名を聞きたくない。アイオリアは激怒し、それをきっかけに
その日はシャカを追い出した。シャカは謝罪もせず、ただ言われるままに出ていった。
 追い出した当人は、直後から酷い罪悪感に襲われる。さらに鬱々とした3日を数え、次こそはシャ
カを訪ねてやるべきだろうかと悩んだ。しかしシャカはなんら変わる様子もなくまたやってきた。
 アイオリアは、兄への怒りと絶望の感触が少しずつ薄れるのを自覚していた。
 次の3日後。その次の3日後。…更に3日後。
 この自分の肉体も感情も全てウソみたいだ、と感じたあの日から、世界はアイオリアにとって色彩
を無くした筈だった。その色が当たり前のようにうっすらと戻っていくのが判る。
 …不思議だ、と思う。
 怒りは孤独に変わり、絶望は失望と諦めに変わった。ただ一つ変わらなかったのは遠さ、だった。
多分初めて、彼は自分と世界との隔たりを知ったのだ。
 自分の嘆きも哀しみも何もかも自分の中にだけあり、世界は何も動きはしないのだという、当たり
前だが理解し難い原理というものを。
「…シャカ」
 その日は教皇への弁明の日だった。正装である黄金聖衣を纏い、アイオリアは隣りに座していたシ
ャカへ真面目な顔で向き直った。
「今日を最後にしよう。今までの約束」
 シャカはついと顔を上げた。綺麗な顔だとアイオリアは場違いなことを一瞬思って、少しだけ赤面
した。
「代わりに、新しい約束、作ろう。今度はお前が決めてくれ。オレ、絶対守るから」
 いきなり新しい決め事と言われても、なシャカの表情。が、さすがに生真面目な彼はいきなり放棄
もしなかった。たっぷり一分も黙った後、こう言った。
「考えておく。明日までに」






 ───そうして。
「なあ、シャカよ」
 その約束を決めてから、十三年もの月日が経っても、お互いの間でそれは破られることもなく今で
も続いている。
 思えばその約束が、アイオリアを聖域に留め置いたといっても過言ではない。
「お前が直々に勅命を受けるなど、珍しいな」
「ヒマそうに見えたのであろう」
 眠ったままでも出来る任務だ、とシャカはさらり言って、クッションに身を沈める。
 ちなみにここは獅子宮である。
「油断をして綺麗な顔に傷をつけてくるなよ。もったいない。せっかくの取り柄を」
「まるで私の取り柄が顔だけのような言い種だな、アイオリア」
「だけとは言っておらんが…まあ、一番の取り柄であろうな」
「最も神に近い男である私によく言う」
 苦笑して、アイオリアは尊大な友人に茶のおかわりをついでやる。いつのまにこんなに隣人は横柄
になったのだろう、子供の頃はもう少し殊勝で、多少変でも気にならないくらいだったのに(?)。
「ところで、いつ戻る?」
「帰り際にガンガーで身を清めて帰るので、翌朝であろうな」
「了解した」
 二人の間で取り交わされた約束とは、つまりこうだ。
 聖域を離れる際には(それがどんなにささいな距離や時間であれ)必ず行き先と帰り時刻を連絡す
ること。これはやはりかつてアイオロスがシャカに厳命したことだ。約束と言っても気の利いたこと
ひとつ思い浮かばなかったシャカは、彼にしては珍しく、ひどく迷いまくった挙げ句、アイオロスの
言葉を丸ごと借りることにした訳である。
 それが、共に暮らす者同士だったからこそ…という論理をシャカは判っていない。ただ約束事は守
るべきだと信じているだけだ。
 一方アイオリアも、親密にすぎる約束を決して重荷に感じることはなかった。根っからバカ正直な
彼は、その約束通りいついかなる時にも相棒に行き先を告げないで消えることは無い。ひたすらに、
今でも忠実に守り続ける。
「帰ってきたら飯を食わすから必ず寄れ」
「…生臭いのは御免だぞ」


 未だ、真実は闇の中だ。
 信じるものが兄ではなく自分の中にある、と気丈にも立ち直ったアイオリア、そしてシャカまでも
が衝撃の過去を知らされるのはまだこの後、である…。













偽善…にせシャカとにせリア。