はじめて



                                             



 沙羅双樹の木の下で彼が散った時。
 目の前で扉は頑強に閉ざされ、牡羊座の聖闘士に行く手を阻まれ、自分の手が届かぬ隔たりの向
こうで馴染みのある強い小宇宙が急速に霧散するのを肌で感じた、あの時。
 …その時初めて気が付いたのだ。きっと。
 獅子座にとって、乙女座の存在がどれほど貴重でかけがえのないものであったか、を。




「…サガたちも辛い立場であったろうが、おまえも」
 アイオリアは今頃になってまたしても怒りをあらわにした目でシャカを睨んだ。
「言葉が足りぬ。足りなさすぎるように思える。僅かでも冥界の雑魚どもに気取られることを恐れ
ていたのだったら、それは間違いだ」
 シャカはいつも通り目を閉じたまま、神妙に聞いていた。…いや、神妙かどうかは目を閉じてい
るので実際のところ判別はつかない。ただいつもの黄金聖衣は纏っていなかった。普段着にしてい
る白っぽい袈裟状の「布切れ」だけが彼が身につける全てだった。
 対するアイオリアも、簡素なシャツとズボンだけだ。二人は今、荒れ野となってしまった処女宮
の裏手の花園跡地に並び立っていた。
「何も直接言動に出さずとも小宇宙で会話だって出来ただろうに、別の理由があったのなら、そう
と一言遺して行ってくれれば…」
 そこまで言ってアイオリアは不意に黙ってしまった。ムウにそんな言葉で押しとどめられたこと
を思い出したが故である。口の中で軽く舌打ちをしてから、眉間にぎっとしわを寄せる。
「お前が命を落とした瞬間に、あんなに冷静に…。やはりオレはアイツが嫌いだ」
 シャカは、微かに笑ったように見えた。他の者では容易に判らないだろうが、アイオリアには確
かに彼が表情を和らげたと判った。
「アイツ、とはムウのことかね?」
「…そうだ。悪いか」
「開き直るのはやめたまえ」
「何を言う、開き直ってるのはお前の方だろう。ずるいぞ、ひとりだけ達観して」
 シャカは、当然のことながら自分が黄泉に旅立った直後の、処女宮でのやりとりを知らない。ム
ウは余計なコトは何一つ言わなかったし、サガやカミュ、シュラも直接手を下す形となってしまっ
たシャカ相手には自責の念ばかりが先に立つのか、やはり言葉少なに謝罪するだけで顛末なぞ話す
訳もなかった。
 しかも当人が黄泉還って来てもちっとも気にした様子がない。
「どうせオレはお前やムウと違って直情な男だ。だがな、男なら…男には、容認できることとでき
ないことがある。オレはそれを貫き通したいだけだ!」
「私に怒るな、アイオリア。だいたい、男、男と繰り返さずとも君は立派な男だろう」
 私に対する嫌味かね、と苦笑混じりにシャカが言うと、アイオリアは更に慌てる。激昂のあまり
ムウに「男とは認めん」発言をした記憶も、実はいまだ生々しい。
「…そっ…そういう意味合いは無い。ただ…」
「ただ…?」
 アイオリアは必死で冷静さを取り戻そうと苦心した。まっすぐにシャカを見やる。
 シャカが、自分の視線に少しだけ、たじろいだように見えた。
「お前はあの時、オレに何も言っていかなかった。それが悔しいだけだ」
 シャカは小さなため息をついた。珍しい、とアイオリアが見守る中で、シャカは目を閉じたまま
つと視線を遠くに泳がせた。
「…正直、この私にも試みが上手く行くか保証しかねたのでな…」
 言って、すいとしゃがみこむ。闘いを知らぬ者のように白い繊細な指が、黒土を無造作に撫で、
軽くつまみあげた。
 アテナエクスクラメーションによってこそぎ取られた花園は荒廃しきっており、焼けこげた大地
には生命の欠片もない。これを再生するのは至難の業だろう。
「どのみち、聖戦では全ての者が黄泉へ旅立つと思った。ならば、君とも冥界で逢うだろう。だか
らそれでいいと、思ったのだよ」
「…冥界で…!?」
「もっとも、一番面倒な闘いを青銅どもに任せてしまったのは不手際だったがな」
 現世の神たるアテナの力によって、黄金聖闘士の殆どは(射手座のアイオロスを除き)復活をと
げた。アイオロスは強い意志の力でハーデスからの誘いをもはねのけ、女神のお許しがあってさえ
今更の復活を望まなかったのだ。
「まあ、…なんだかんだと呼び戻されてしまったが。君も無事戻ってきているならそれでいい」
 アイオリアはしみじみとシャカを見下ろした。
 イマイチ言葉に情がこもっていないので脳に浸透しにくいのだが、今のシャカの台詞は、要する
に「自分(アイオリア)が共に居る」ことが大事だ、と、そう取っていいのだろうか。
「シャカ…」
 シャカは、ぱたぱたと指についた土を払い落とし、また立ち上がった。並び立っても、まだアイ
オリアはシャカを見下ろす形となる。アイオリアは奇妙な、そして酷く熱い感情が胸の内からわき
たつのを自覚した。
 …あの時初めて、オレはこいつを失いたくないと思った…。
「触っても、いいだろうか」
 シャカはまた、さっき見つめたときのようにたじろいだ。今度は明らかだった。ひくり、と細そ
うな肩が揺れたからだ。
「…許可を取ろうなぞ、図々しいな。君は」
 シャカの声は珍しくちょっと上擦っていた。だが、拒絶の気配は感じられなかった。それが判っ
たので、アイオリアは心底ほっとして(だって彼に嫌がられたらきっと辛いだろうと思っていたか
ら)「事後承諾よりマシだ」と言い返してみた。渾身の覚悟で手を差し伸べた。
「…ッ…」
 長くてバサバサの睫毛が震えたのが見えた。さらり、と絹糸のような金の髪を指にからませ、白
い頬に掌を当てた。もう片方の手を肩に置いて、思い切って引き寄せた。
「目を開けてくれないか、シャカ」
 シャカはまたびくっと身体を震わせたが、やがてゆるゆると瞼をあげた。真っ青な双眸がアイオ
リアをひたと見つめ、唐突に笑み緩んだ。
「普通は、目を閉じろというのが礼儀ではないかね? こういうときは」
「それはお前がいつも目を閉じているのが悪いのだ。オレはお前の目が見たい」
 シャカは、更に笑った。普段の彼しか知らない者たちが見れば仰天したであろう、極上の笑みを
浮かべて尊大に告げる。
「こんな目でいいなら、しかと見たまえ」


 …やがて、青い瞳が不意に大きく見開かれる。時間にしてほんの、数秒。


「──…事後承諾よりマシだと抜かしたのはどこの誰だったかね?」
 シャカは真っ白な筈の頬をかなり赤く上気させて、獅子に抗議した。が、すっかり普段の仮面を
外してしまっている今の状態では、さながら美女と野獣…もとい百獣の王といった風情で、アイオ
リアはまったく悪びれた様子もなかった。
「許可を取ったら、くれたのか?」
「……ッ!」
 アイオリアは、嬉しそうにシャカの髪を撫で回した。
 今になってやっと気が付く。ああ。こんなにも自分はコイツに惹かれていた。彼に触れられるの
が堪らなく嬉しい。
「イヤだと私が言ったら、やめたのかね」
「いや。だから許可はとらなかった」
「あのな…」
 その、完全にゆるみきった相手の全開笑顔に、シャカも観念する。昔から本当に、獅子にはかな
わないのだから。
 そうして結局なすがままにされるシャカであった。
「…リア」
 シャカは、久し振りに懐かしい呼び名で相手を呼んだ。アイオリアもそれに気づく。
「この、花園。元に戻したいのだが…手伝ってくれるか?」
「もちろん。お前の頼みとあらば」
 その代わり、とアイオリアはまた顔を寄せた。逃げないようにしっかり肩も押さえて。
「もう一度、キスしていいか」
 シャカが呆れて目を細めた。
「2度目からは許可制か? 天舞宝輪をくらわすぞ」
「それは許してくれ」



 ざわ、と梢の鳴る音が遙かに響いた。
 あの爆発の瞬間、シャカの背後にあったお陰で彼の強大な小宇宙に助けられ、奇跡のように無事
だった沙羅双樹。今はすっかり花を終えて青々と茂る。
 アイオリアはきっと、何度この樹を見てもシャカの消滅の瞬間を思い出すだろう。
 あの時初めて感じた、恐ろしいほどの喪失感。兄を反逆者として失ったときとはまったく違う、
ただひたすら慈しみと愛おしさだけをやるせなく抱えてしまった、切なさ。
 誰よりも、大事だった。いつのまにか。
(もう、失わせない)
 唇から伝わる確かな熱が、アイオリアの気持ちを不思議なくらいに満たしていった。













初夜…にしたかったのに初ちゅーだけになってシマターうぇっへっへ…(爆死)