13年間





                                             



 強い風が、墓地の草を一斉に撫でていく。
 アイオリアは目映い黄金の聖衣を纏った姿で、風の去る方向をぼんやりと見つめた。そうしてもう
かれこれ半日ほどもそうやって、ずっと動かない。
 涙は涸れてしまっていた。叫ぶのもやめた。ただ、地面に根がはえたみたいに、どうしてもその場
から立ち去ることができないでいた。…兄の墓石の前から。
 アイオリアは十三年もの間、ごく一部の人間を除いてほぼ全ての者から「裏切り者の弟」呼ばわり
されて生きてきた。蔑まれ憎まれて育ってきた。
 自分をそんな状態に追い込んだ亡き兄に恨み言を呟いたことなどもはや数え切れない。かろうじて
兄が「反逆者」となる直前に聖衣と宮とを所有し、黄金聖闘士として確固たる地位を確立していたこ
とが救いだった。でなければアイオリアは即座に聖域から追放されていたであろう。
 …いや、幼い頃はいっそ追放された方がマシだ、とアイオリアは何度も思ったのだが。どうして兄
が裏切ったのか、そのせいで自分が蔑まれなければならないのか全く納得がいかなかった。まさしく
針のむしろと化した聖域で、彼は兄について深く推察することを放棄した。そうすることで自分が自
分であることを必死で守ったのだ。それは当然の自衛だった。
 だが…。
「アイオリア」
 気配もなく、唐突に声だけがやってきた。誰の声かはすぐに判った。いつのまに、と驚く余裕さえ
なくアイオリアはゆるゆると振り向き、強い風になぶられながら立つ乙女座を見つけた。
「…日が暮れる。もう宮に戻りたまえ」
 シャカは聖衣を纏っていなかった。いつもの薄っぺらい布を適当に巻き付けただけで、むきだしに
なった細い手足が冷たい外気に晒されて酷く寒そうに見える。この彼だけが、幼い時から十三年間も
の間まったく変わらず自分に向かい合ってくれたことをアイオリアは良く知っていた。
 そして、自分以外でただ一人、兄の存在を十三年間いつも忘れずにいてくれたことも。
「…シャカ」
 シャカは、さくさくと迷いなくアイオリアの傍に歩み寄ってきた。アイオリアがここ数日、ろくに
自宮にも戻らずこうして墓地で時を過ごすのをシャカは知っていて、だから今までは邪魔をしないよ
うにしていたのだが、今日はさすがに声をかけに来たらしい。
「このシャカに、食事の用意をさせるとは何事だね。キミがいつまでも戻ってこないものだから、私
が作る羽目になった」
「おまえが、か?」
 実は作ったのは殆どムウだったりするのだが、余計なことはシャカは言わなかった。
「…おまえに食事の心配をされるとは、太陽が西から昇ってきそうだな…」
「無礼な物言いだが、今日は許してやる。疾く戻りたまえ」
「そうだな…」
 だがしかし、獅子はちっとも動く気配がなかった。シャカはそんな隣人の様子にため息をついて、
しばらく大人しく時を待とうと視線を泳がせる。風は相変わらず強くて、二人の髪を容赦なくかき乱
ていた。
「…なあ、シャカ」
 不意にアイオリアは呟いた。注意して聞いていなければ聞き逃すくらい小さな声で、シャカは一瞬
眉をひそめて振り返った。
 アイオリアは墓石を見ていなかった。ただ遠くを見ていた。
「俺の、…兄さんの十三年間は、何だったんだと、思う?」
 シャカは息を詰めた。



 ごう、と耳元で風が鳴る。
 返す言葉が見つからずただ神妙に黙りこくるシャカを見て、アイオリアは自嘲気味な笑みを浮かべ
てみせた。そうだ、答える言葉なぞ無いだろう。
「…兄さんは、十三年間も誤解され、裏切り者呼ばわりされていた。命を賭けて女神を守り抜いた兄
さんを、聖域の誰もが口汚く罵ってた。弟の俺でさえ」
「リア」
 たしなめるように呼ぶシャカを無視して、アイオリアは尚も続ける。
「…兄さんは聖闘士として失格したのかもしれないと思わずにはいられなかった」
 シャカは、そんなことはない、と言おうとして、しかし口を噤んだ。慰めの言葉にするにはあまり
に単調な台詞だと思えたのだ。
「俺は十三年間、裏切り者の弟と呼ばれてきた。…もちろんお前だけはそう呼ばなかったし気にもし
てなかったことを知っている。お前のおかげで俺はやってこられた。感謝している」
「…それは」
「だけど他の連中はどうだ。白銀や青銅の、いや、雑兵どもの態度。女神が本物と判った途端に掌を
返したみたいに。俺も、いや…真実に気が付けなかった俺達みんな、バカみたいじゃないか」
 シャカは、また言葉を失った。神に最も近いと呼ばれながらこの聖域に十三年もの間息づいていた
邪悪に気づけなかった己の愚かさ。所詮は本物の神に及ぶべくもない「黄金聖闘士」という存在、あ
まりにも他愛なく翻弄される、我らの運命…。
「俺は…兄さんを信じてやれなかった。なのに、女神を信じた兄さんは殺されて、俺は生きている。
そんなのってありなのか」
「…リア」
 アイオリアは、ゆるゆると首を振ってみせた。涙は涸れていた。声音だけが泣いていた。
「…俺は、女神を…信じることが…できないかもしれない…」
「リア。それは口に出してはならぬ」
 シャカは、途端に厳しい口調でたしなめた。が、アイオリアは我慢がならない様子で、シャカの肩
をいきなり掴んで揺すぶった。完全に八つ当たりにすぎないと判っていても、藁にもすがる思いで手
に力をこめた。
「女神は何故兄さんを助けてくれなかったんだ!! 何で! 命までなげうって女神を護ったのに、
なんで十三年間も蔑まれなきゃならなかった!」
 神様なんだろう、と震える声で訴え、シャカにすがりつく。シャカは黙ってなすがままになりなが
ら、ゆっくりと目を開けた。神が人間を助けないことは、生まれたときから良く知っていた。
 …神もまた、意思があり、それ故に間違いを犯す。そしてそれらは時に理不尽なやり方で更に修正
がなされるのだ。こんな風に。
「試練だ、とは私は言わぬ。リア。童虎ならばそう諭すだろうが」
 アイオリアは、はっ、とシャカをみやった。シャカは真っ青な瞳でひたとアイオリアを見つめ返し
ていた。
「リア。我らは黄金聖闘士だ。そして、聖闘士とは神への供物なのだ。いつどのように命を捧げるか
それは、神の…女神だけではない、神々の気まぐれなのだ」
 アイオリアは、涸れた筈の涙がいつのまにかわき上がるのを感じていた。シャカが、このシャカが
女神を、…神をそんな風に言うのを初めて聞いた。
「もはや聖闘士としての生を受けてしまった以上、我らに選択権は無い。気付かぬまま捧げるか、気
付いて尚捧げるか、それだけの違いだ。…ひとつだけ言えるのは、アイオロスは気付いていてすべて
を捧げた。私は彼を…尊敬する」
 シャカのその言葉がまさに堰を切った。アイオリアは、どっと溢れてくる涙を拭う余裕さえなく、
再びシャカにすがりついた。そうするしか出来なかった。
「…俺は…兄さんに謝りたいんだ…!!」
「そうだな。…いずれ、謝る機会もあろう。いずれ」
「兄さん…!!」
 夕暮れ、というよりもう宵闇が近づいていた。真っ赤に染まった彼方の山々が段々色を失っていき
辺り一帯が急速に暗くなっていく。そんな中で、アイオリアは細い隣人の身体を抱きしめたまま、長
いながいこと、泣き続けた。




 翌朝早く、シャカは一人だけでひっそりと墓地を訪れた。
 風はまだ強かったが、昨日ほどではない。代わりにこの季節には珍しい、分厚い雲が空の向こうか
ら迫ってきているのが見えて、その不愉快な気配に思わずシャカはむっと顔をしかめる。
「ロス」
 シャカは、昨日ずっとアイオリアが離れられずに居た小さな墓石の傍に立ち、目を開いてその石こ
ろをじっと睨み付けた。
 シンプルでおおざっぱな墓石。適当な大きさの石に名前を刻みつけただけの。
「私は、貴方が…好きでした。でも、狡いとも、思う」
 シャカは、低く呟いて、尚もじっと石を睨む。
 こんなものの下にアイオロスは居ない。少なくとも彼の死体は十三年前から失われたまま、今も発
見されてはいないが、例え遺体がここに埋められたとしても、そんなものにアイオロスはもう居ない
筈だった。物言わぬ骸など、ただの肉塊だ。やがて朽ち大地となるだけだ。
 …まして、この石ころが彼の墓標だなどと、バカらしいにも程がある。
「冥王がいかなる手を伸ばそうと、貴方は決して応じない。貴方の命は女神ただ一人の供物となり、
永劫の栄誉と慈愛を受けたからだ。故にこの時代に、貴方は聖戦を勝ち抜いたことになる。本当はこ
れから、血で血を洗う争いが始まろうというのに」
 シャカは、そこまで言って、ふと表情を翳らせた。
 こんな、形式だけの石ころ相手に自分もいい加減愚かなことを、と自覚しているのだ。一度くらい
こういうのもいいかと思ったが、やはり自分らしくない。
「…リアが起き出してくるころか…気付かれると何を言われるか判ったものではないな」
 シャカはぽつりとひそやかに呟く。ひと呼吸後、さらりと長い髪を靡かせ、踵を返した。




 雨の匂いが近づいてくる。
 神の気まぐれが、また始まろうとしていた。













様々100お題でもちらとやった「リア、兄への誤解が解けて懺悔」のリアシャカver.仕切り直し。
いやしかしこれリアシャカなのかリアシャカと名乗っていいのか。つかむしろロスシャカなのか。