開眼シャカ





                                             



 初めて出逢ったときから「彼」は目を閉じていた。それは覚えている。
 目が見えない訳でもないのに何故見ようとしないのか、それは今となっては別の即物的な
理由に隠されてしまってもう確かめる術もない。
 本当は、幼少の頃にしつこく尋ねたことはある。けれど彼はいくら問いつめてもかたくな
に口を閉ざすだけでそのことについてはうんともすんとも言わなかった。一本気な隣人の獅
子座はそんな彼に酷く腹を立てたりもしたが、結局、誰にも言いたくないことくらいあるの
だ、と納得するしかなかった。
 幼いレオは潔く謝罪し、そしてそのことは以後禁句となった。
 今でも思う。どうしてその目を開こうとしないのか。そんなに美しい宝石みたいな瞳を無
いものみたいに閉ざすのはあまりに歯がゆい。無理強いはしたくないけれど、もしできるこ
とならずっと目を開けるようにしていてほしい、と心から願う。
 いつか、出来るなら。





「シャカ、通るぞ!」
 獅子座のアイオリアは、教皇宮への所用があって勝手知ったる処女宮へと踏み込んだ。そ
れと同時によく馴染んだ隣人の小宇宙を辿る。今日はプライベートエリア内に引っ込んでは
いない。外の庭園にも出ていない。回廊にいる。
「…通りたまえ」
 凛とした主の声が返ってきた。瞑想の最中にしては返事のとおりが良い。アイオリアは躊
躇いなく奥へ進んだ。やがて通路の脇にいつも乙女座シャカの座る蓮の台座が見えた。とこ
ろが台座には、なんと白い猫がちまりと寝ているだけで当人の姿はどこにもなかった。
「マヤ。ご主人の瞑想場所を奪い取ってまた昼寝か」
 アイオリアは呆れて呟いた。
 猫は、台座に使いふるしの毛布を敷いてもらって、その上に当然のように寝ている。この
十二宮で神に最も近い男シャカから場所を強奪するとはいい根性だ。この台座の上に座す主
の膝の上を占拠することもままあったが、今日のところはシャカが引いてやったらしい。
「…大したものだな、あのシャカにうち勝つとは」
 言って、がしっと無造作に猫の頭を撫でる。真っ白な猫は昼寝を中断されて小さな抗議の
声をあげたが、声音ほどは嫌がりもせず、その無骨な愛撫に甘んじた。ひととおり撫で回さ
れてから、その美しい目をひょい、と開ける。
 極上のブルートパーズみたいな水色の瞳。
(…う…)
 その綺麗な水色に、アイオリアはどきりとした。いつも見慣れている筈の猫の双眸が、そ
のときは何故かシャカの瞳と重なって見えた。
(…いつも…あいつもこうやって目を…開けていればいいのに)
 そうだ。シャカの瞳は、一度見たら絶対に忘れないと思えるくらい見事なロイヤルブルー
なのだ。同じ青でも随分色が違うのに、どうしてこの瞬間に思い出すのだろう?
「…おまえ、なんかシャカに似てないか」
 アイオリアはそう言ってもう一度猫を撫でた。しかし猫は、もう乱暴に扱われるのは御免
だとばかり、真っ白な体躯を起こして軽く背伸びをしてから、するっと台座から降りた。そ
うしてそのまま数m先の石柱の影へと走り込む。嫌がられてしまった。
「あっ…おい、マヤ」
 猫をあわてて視線で追うと、今度は柱の影にはシャカが居た。シャカはいつものように適
当な布を適当に巻きつけただけの格好で、柱を背にして座していた。
「…シャカ? こんなところに居たのか」
 シャカは、そしていつものように目を閉じていた。猫の目が開く瞬間を見たせいなのか、
アイオリアはシャカの目を見たいという奇妙な衝動が胸に沸き立つのを感じていた。
 ───何故目を閉じているのか、もう一度だけ訊く権利はあるだろうか。
「マヤに追い払われたのか? もう少しマシな場所で座ればよいものを」
「どこに居ようとここは私の宮の中。放っておきたまえ」
 高慢な物言いもまったくいつも通りだった。まったく。俺でなければ誰がこんな男の心配
をしてやれるというのだ。
「別に文句を付けている訳ではない。だがそれでは身体が冷えてしまうだろう。何でも小宇
宙で解決できると思ったら大違いだぞシャカ。また昨年のように風邪をひきこむか?」
 シャカは、それには呆れたため息で返してきた。
「一言えば十も返してくる…このシャカに説教とはな。まったく獅子のくせに妙に理屈臭い
男だ」
「それこそお前に理屈臭いなどと言われたくはないわ」
 そこまで言って、さっき逃げていった筈の白猫がシャカの小脇ですりすりとまとわりつい
ているのを見つける。シャカがすい、と白い手を伸ばしてその猫の頭を撫でた。
「マヤ?」
 アイオリアはつい、呼んだ。猫はするんと主の小脇から顔を出し、…そうしてまたはたり
と目が合った。
 猫の水色の瞳が、一瞬、鮮やかにアイオリアを射抜く。まるでシャカの代わりにみつめる
かのように。
「…なあ、シャカ」
 アイオリアは覚悟を決めてシャカに向き直った。まるで猫に「聞け!」と言われているよ
うだった。そんな筈はない、だって猫なのに。
 けれど衝動はもう収まらない。
「なんだね」
「もし、今でも、許されるのなら…シャカ、目を開けてくれないか。そして、答えられるも
のなら答えて欲しい」
 少しだけ間を置いて。深呼吸までして。それから。
「何故お前はいつも目を閉ざすのか、その理由を」



 シャカがきゅっと細い眉をしかめて、それからゆるりと瞼が上がった。
 真っ青な紺青の双眸が金色の睫毛から現れる様が、いつもながら息を飲むほどに美しい。
「…その理由は、既に君も知っているのではないのかね」
 シャカの声は割合に穏やかだった。怒らせたかもしれない、と思ったのだ。が、シャカは
まったくいつも通りの調子だった。
「小宇宙を高めるため、という名目になっているな。それは俺も知っている。が、それは本
当の理由ではない」
「何故そう言い切る」
「そんなことをせずともお前は小宇宙を極限までコントロール出来る。その方が容易いとい
うだけの理由だ、感覚をひとつ遮断するという程度は。…お前は聖域にやってきた当初から
目を閉ざしていた」
「どうしても答えさせたいのかね、このシャカに、理由を」
 シャカの声音はあくまでも静かだった。アイオリアはさすがにその静けさが不安になって
少しでも感情をセーブしようと必死で同じような静かな声音を作ろうとした。
「…お前がどうしても答えたくないというのなら、このアイオリア、無理にとは言わん。許
されるのなら、と俺は言った筈だ」
「では、却下だ」
 シャカの答えは容赦なかった。そうかやはりダメか、とアイオリアはガッカリし、しかし
決して不平は言うまいと更に感情を抑えるべく何度か深呼吸した。
 シャカは、決して怒りはせず、しかし欠片ほどの笑みも浮かべず付け足した。
「君にはその問いも、それから答えもふさわしくない」
「どういう意味だ?」
 シャカは、ひたと目を合わせた。滅多に開かないと言われ非常に珍しがられ、あるいは下
手をすれば畏れられてさえいるが、こうして目を開いているところを見るのは、獅子座にと
ってはそれほど珍しくはない。こうして、頼みさえすればいつでもシャカは目を開けてくれ
たから。
 …それが、その事実自体がどれほど「獅子座が特別か」という証明になるのだが、あいに
くアイオリアはそれを知らない。
「目を開けて欲しいというのなら、こうして開ける。それだけでは何故足りぬのだね?」
 アイオリアは、焦ったようにシャカを見、そして猫も見た。
 猫はじっと自分を窺っていた。どうしてこんなに飼い主に似たんだこの猫は! アイオリ
アはまるで責め立てられているような気分になって、つい声を荒らげた。
「俺は、お前に、いつも、…頼んだときでなくてもいつでも目を開いていて欲しいのだ!」
「それが、理由を訊く理由かね?」
「…そう…かもしれん」
 シャカは、唐突にアイオリアから視線を外した。青い瞳が珍しくギリギリの感情で揺れて
いるのを見て取って、獅子座はまた自分がよからぬ爆弾を踏んだのか、とますます焦る。し
かしシャカはそれ以上の行動を起こさなかった。
 ようやくほっとして、アイオリアはとりあえず真っ先に謝った。
「…お前の気に障ったなら、謝罪する。もう訊かんから安心してくれ」
 シャカは、もう一度まっすぐにアイオリアを見た。今度は青い瞳に躊躇いは無かった。
「…君が」
 シャカにしては珍しく、言葉を一旦切った。ちょっと考えてからまた続ける。
「君がそんなに私の目を開かせたいのは何故か、訊いてもいいかね」
 アイオリアは即答した。そんなのは訊かれるまでもない。
「俺が、お前の目が好きだからに決まっているだろう。それに、目が見えない訳でもないの
に綺麗な景色やいろんなものを見ないでいるのはもったいないではないか」
「………そうかね」
 随分長いこと絶句していたようだったシャカは、やっと言葉を発した。何か自分は変なこ
とを言っただろうか、と奇妙な顔だった獅子座は乙女がようやく口を開いたことに安心して
「そうだとも!」とわざとらしいくらい大きな声で言ってしまった。
 シャカは淡く微笑していた。
 ああ、青い目が本当に綺麗だ。アイオリアは惚れ惚れとみとれる。というか、こういって
は何だがコイツが男に生まれたのは神の間違いか意地悪なんではないかと思うくらい、本当
に本当に、綺麗なのだ。
(この十二宮の一番上の方にも同じ感想を毎回思う男が居るが、個人的に彼の美しさよりも
この乙女座の容姿を獅子座は何よりも誰よりも好きだった)
「俺はお前の目が、いや、おまえが好きだ! だから!」
「リア、判っている」
 シャカはどうどう、と獅子を宥めた。
「…では、君が望む限りとまではいかぬが、出来うる範囲では私は君にこの目を開いてやろ
う。頭を大地にすりつけ感謝したまえ」
 アイオリアは喜色満面で頷く。それこそ言ったシャカの方がたじろぐ勢いで。
「ああそれでもいい! とりあえずそれでいい!」
 とりあえずって何だ、とシャカがツッコミを入れる前にアイオリアはいきなり行動した。
踏み込みの一歩で猫がまず察知して、疾風のように飛びすさったが、あっけにとられていた
シャカは逃げるのが遅れて、あっさり獅子座の腕に捕まった。
「う、わっっ!!」
「お前の瞳はまるで奇跡のようだ、いやお前全部が!」
 とんでもない言葉を言われながら抱きしめられたシャカは、滅多に開けぬ目を限界まで開
いた後、やれやれと呆れて何度か瞬きした。
 なんでこんなに獅子相手に振り回されているのか、正直乙女座には自分で自分が理解でき
ない。…まあ、悪い気はしないのだが。(そこが問題か?)
「と…ところで獅子よ、君はさきほど通り抜ける、と叫ばなかったかね。何か上に用があっ
たように見受けられたが…」
 シャカはやや混乱気味ながら、獅子を自分から剥がす一番の策を口にした。案の定アイオ
リアは「あっ!」と大声を上げて腕の力を緩める。そこをすかさず、シャカは抜け出した。
「しまった教皇宮にいかねば!」
「疾くいきたまえ。こんなところで油を売らず」
 アイオリアは、駆け去る間際にまたな、と声をかけて大急ぎでその場を駆け去った。もち
ろん律儀に返事などする訳もなくシャカはどこか茫然と見やる。猫がその足下にすり寄って
にゃあん、と一声鳴いた。シャカは、軽く屈んで猫の体躯を軽く持ち上げ、己の肩口にひょ
いと乗せた。
 猫が満足そうに肩に巻き付く。
「…この世界を見ぬのは、もったいない、だそうだ。マヤ」
 シャカはふと、呟いた。そしてそのあまりにも前向きな獅子座にただ限りない敬意だけを
感じた。…自分には決してできない考え方であるが故に。
 もうひとつの、熱烈な告白みたいな言葉には、シャカは今のところ深い意味を求めようと
はしなかった。嬉しくなかったといえばウソになるが、正直、どう捉えていいものやらさす
がのシャカにもイマイチ判断しかねたので。




 一方アイオリアの方は凄い勢いで天秤宮辺りを通り抜けつつ、自分の言動を頭の中でリフ
レインさせて大いに混乱しまくっていた。
 あの猫の瞳に幻惑させられたのか、ずいぶん危ない橋を渡ってしまった気がする。結果的
にシャカは笑って許して(?)くれたし、目だってなるべく開いてくれると素晴らしく妥協
した約束をくれたのだが。
 何故目を開かないのか、についてははぐらかされたままだったが、それについてはもう考
えるのはやめにした。多分、己の弱い部分を勘付かれたくないシャカの、最後の防壁なのだ
ろう。あの気位の高い乙女座が大人になった今でもひっそり抱えているというのだから、こ
こは男らしく(?)そっとしておいてやるべきなのだ。
 別に理由は、もういい。それよりも、開いてくれるということに意義がある。
 アイツの瞳が、…アイツが目を開いたその様が、とてつもなく綺麗だから。美醜の問題と
いうよりはただひたすらに穢れなく美しい。
「あ」
 だが、天蠍宮を目の前にしたくらいで、アイオリアはばたっと立ち止まった。
 なんかそういえば、さっきすごいことを口走ってしかもアイツを抱きしめたりしなかった
か? というか今更それに気が付くか?
「あいつが好きだって、おもいっきり叫んだぞ俺」
 シャカが聞いていたら呆れ果てたに違いない。何故この段階まで理解が脳に浸透していな
いのか。とりあえず言うだけ言って後から考える、口と脳が分離しているタイプの典型とい
うヤツであろう。
 しかも、よくよく考え直せばシャカは割合平然と(呆れていただけとも言う)「判ってい
る」と答えていた。判っている? 本当に? 判ったのか俺の言葉が。
「ううぬ…」
 一旦止めた足をまたアイオリアは上に進めた。悩むのは性に合わない。ええい面倒、とば
かり獅子は問題を丸投げした。シャカのことだから流し聞いているだけに違いない。
「また後で考える! 後だ後!」
 アイオリアはもう一度スピードを上げた。多分ここを下って戻ってくるころには絶対に別
のことで頭が一杯になって問題を忘れているだろうことは明白だった。














十二宮(サガ)編ほんのちょっと前。惰弱だ。