花の香りがするな、と気が付いたのはいつのころからだったか。
 いつも、何だか夢のように感じていたのかもしれない。



「…なあ、シャカ。おまえの髪さ」
 珍しく十二宮の外で獅子座が乙女座とばったり出くわした。どちらも自宮に戻ろうとい
う時で、行き先が(途中まで)同じことは明白だった為に自然、何も言わずに連れ立って
歩き出した。そんな折、獅子座の方が先に唐突に話し出した。
「…髪?」
 立ち止まるでもなくシャカは聞き返す。
「そう、髪」
 今年で15になるアイオリアは生真面目に頷いてみせ、気負いも躊躇いもまったく無いま
ま、同じく15になる筈の隣人の髪を横から大胆にすくい上げた。さすがのシャカも、その
唐突さにたじろぎ、ぴたと足を止めて相手を睨む…ように顔を上げた。
「この髪が何だというのだね」
 それでも「触れるな」と言い出さないのは乙女座なりの学習機能だった。6歳からの幼
なじみでもあるこの獅子座は、こうして突然脈絡もないことを話しかけたり触ってきたり
するのが常だったので。いちいちそれに驚いていては自分の方が疲れてしまう、という訳
である。
「あのさ、おまえの、なんか甘い匂いがするんだけど、何かつけてるのか」
 アイオリアも、シャカが立ち止まったので隣に立ち止まっていた。同じ石段に立つと、
身長差が際だって感じる。こうしてまじまじ近くに立つのは実は久し振りで、アイオリア
は金糸の髪を一房無遠慮につかんだままの状態で、シャカをますます生真面目にみつめて
しまった。
 …なんだか隣人が小さく感じるのは気のせいだろうか?
「匂い? 洗剤の匂いかね」
「洗剤っつか、…おまえ、そういや何で髪洗ってるんだ?」
 さらり、さらりと獅子の指先が白金色の絹糸みたいな髪をいじくりまわす。乙女座はそ
れをじっと立ったまま、好きにさせている。
「別に、普通に洗っているだけだが」
「水で? せっけんで?」
「アイオリア。…このシャカとて髪用に洗剤があることくらい知っている。まあせっけん
で代用したことが無いとは言わないが」
 とてもそんな粗雑な扱いをしているとは思えない美しい柔らかな手触りにアイオリアは
心底呆れ果てた。一体この髪は何で出来ているのだ。黄金か。自分の髪はもっともさもさ
していて手触りもどうでもいいカンジなのに。
「そうか、ならいい。もし今でも泉で沐浴して済ます、なぞとのたまわれたら風呂にたた
きこんでやろうかと思った」
「沐浴もしないことはないが…アイオリア、キミはまだ私をガンガーのほとりで小石のよ
うに生きていた頃と同じだと思っているのかね」
「違うのか?」
「無礼な。常人というのがどの程度のレベルかは図りかねるが、少なくともこの十二宮に
おいての日常くらいは学んでいる」
 その十二宮の日常が、どれほど一般人の日常とかけ離れているかについては、シャカは
知らなかったりするのだが。その点については獅子座も同レベルなのでこれ以上反論の余
地はなかった。アイオリアは満足して頷いた。
「…いい匂いだな…」
 ふと、顔を近づけて香りを愉しむ。シャカはやはり少したじろいだが、決して逃げたり
はせず、好きにさせていた。
「最近は買いにゆかずとも、アフロディーテが不要になったと言っては試供品の山を処女
宮に投げ捨ててゆく。捨てるには忍びないので私が使ってやっているのだ」
「初耳だ。アフロディーテ、だって?」
 アイオリアは目を丸くして隣人に向き直った。その拍子についうっかり握りしめていた
髪の一房を引っ張ってしまって、この仕打ちにはさすがにシャカも怒り出す。
「いい加減に離したまえ、無礼な」
「ああ、イヤ悪い。びっくりして」
 とりあえず名残惜しくも手を離す。さらり、と微かな音と共に指先から金糸が遠ざかっ
ていくのを束の間見送って、アイオリアはもう一度、真面目な顔で向き合った。
「アフロディーテが、おまえにシャンプーとか、くれるのか?」
「恩着せがましく捨て置いてゆくのだ。それは凄まじい量をな」
「…仲がいいのか?」
 ちょっとばかり嫉妬じみた声音で聞いてみる。この人間離れした隣人と対等に付き合っ
てやっているのは自分だけだと思っていたのだが、まさか魚座とは。百歩譲ってミロ(反
対隣りだし)ならまだ判るのに。
「いいだの悪いだのの問題ではない。どうせ向こうも通りすがりのゴミ置き場くらいにし
か思ってはおらぬだろう」
 魚座の真意はとりあえず不明だが、シャカがそれを黙って受け取るというのも意外だっ
た。アイオリアは尚も食い下がった。
「イヤならイヤと言えばいいじゃないか。なんなら俺が代わりに言ってやろうか」
「一度は言った。が、物を粗末にするなと言われ腹が立ったので、ならば使ってやるから
置いてゆけと」
「あー…そう」
 粗末にしているのは魚座の方だろう、という反論はもはやシャカには無駄だった。まあ
本当のゴミを置いていってる訳じゃないからこの程度は放置するのが利口か。
 しかし、とアイオリアは眉をひそめる。もしかしてこの十二宮では、一部を除いて「裏
切り者の弟」扱いされている自分よりも、むしろシャカの方がさりげなく幅広く同僚たち
と関わっているのだろうか。
 たとえば、蟹…とか、山羊、とか。
「リア」
 はた、と気が付くと、もうシャカはアイオリアの傍からふいと離れ、石段を登りはじめ
ていた。振り向きもせずに呼ばれた声で、アイオリアは顔を上げる。
「こんな通り端でいつまでも立ち止まっている理由はなかろう。話があるなら歩きながら
話したまえ」
 言われてあわててシャカを追った。シャカの通った後には、ふわふわとシャンプーの匂
いがこぼれていて、ああこの匂いだ、とアイオリアは改めて気が付いた。
 いつも感じていた柔らかな甘い香り。
 …いつのまにか何よりも馴染んだ、隣人の気配と共に。




 余談だが。
 乙女座と獅子座が連れだってどこぞに出かけてきた帰り、巨蟹宮で魚座と出逢った。魚
座が自宮でもない巨蟹宮に居座っているのは割とまあいつものことなのだが、鉢合わせる
のはとても珍しい。魚座も蟹座も、(山羊を除いて)他の同僚に出逢うのを大抵面倒がっ
てプライベートエリアにひっこんだきり顔を合わせようとしないからだ。
 それが何故今日に限って出逢ったかと言えば理由は単純で、例によって例のごとくアフ
ロディーテは、日用雑貨美容品一連グッズを「いつものように」乙女座におしつけるため
通りすがりのチャンスを狙っていたのだった。獅子が同行しているのは気配で気付いてい
たが、この際かまってはいられない。
「アフロディーテ…なんでここに」
 獅子がおかしな顔をするのを無視し、魚座は乙女座にすかさずでっかい紙袋を無理矢理
持たせた。シャカも何も言わずに受け取る。いつものなりゆきなのだろう。
「捨てるなよ。ちゃんと使ってくれ」
 短くそれだけ言うと、アフロディーテは再びプライベートエリアの方へと姿を消した。
シャカはそれを黙って見送ったが、アイオリアは不可思議な光景に目を丸くする。話には
聞いていたが、なんとまあ…。
「…いつもあんななのか」
 シャカに尋ねると、シャカは軽く頷いた。紙袋の中身を確かめようともせず、すたすた
と回廊を抜ける。アイオリアは小走りにそれを追いかけながら、ふと魚座が消えていった
プライベートエリアの方角を振り返った。
(あんなに要らないものを買ってるのか…使うものだけ買えばいいのに)



 アフロディーテがプライベートエリアに戻ってくるのを、主である蟹座は含み笑いしつ
つ見守っていた。
「よう。まだあんなんに世話焼いてんのか」
 アフロディーテは蟹のシニカルな笑みを「ふん」と鼻息ではねとばした。
「世話など焼くものか。要らなくなったものを捨てる代わりに押しつけているだけだ」
「それにしちゃマメに買い足してやってるよな」
 荷物持ちだといって一緒に買い物に付き合わされている蟹は、事情を良く知っている。
アフロディーテはため息をついて、諦めたように話し出した。
「…ヤツは以前、せっけんで髪を洗っているなどとほざいたのだぞ。我慢できるか?」
「バカ獅子の野郎だって似たりよったりだろ」
「あれは見かけ通りだからどうでもいいんだ。シャカは、…ヤツは髪が長い分だけ始末に
追えん! 伸ばすんなら綺麗にのばせ綺麗に!」
 まあなあ、と蟹は更に含み笑い。魚座が、口ではうざいとかなんだとか文句を垂れつつ
も、相当世話好きなのはとうに承知だ。
「せっかくまれにみる質の良い髪なのに無造作に伸ばし放題で…。ほったらかすのは美意
識に反するのだ。乞食みたいな姿で十二宮を歩き回られたら黄金の権威もすたる!」
「じゃあそう言ってやりゃいいだろーに」
 アフロディーテはもう一度大きなため息をついた。
「正面から言うと、人間の美醜なぞ皮一枚だと抜かして反発してくる。ああいう手合いは
全然別の論法から丸め込むに限るのだ」
 ご苦労なこって、とデスマスクはにやり、笑った。
「いっそ獅子から手懐けたらどうだ? 獅子はおシャカ様の世話係だぜ」
 アフロディーテは「冗談じゃない」と急いで首を横に振った。
「あんな熱血獅子を手懐ける方法など、私は知らない」















人間レベルを超えたズボラなシャカが身綺麗なのは周りの努力あってこそ、とか、とか。