日常



                                             



 乙女座バルゴのシャカが、自宮の近くで子猫を放し飼いにしているという。
「…コレが、そうなのかな」
 珍しく教皇からの呼び出しがあってはるばる長い石段を登っていた牡牛座の聖闘士・アルデバラン
は、目の前の岩場からちょろりと飛び出した子猫の姿に足を止めた。
 猫は、まったく立ち止まらず、そして音もたてずにアルデバランの正面を横切り、そして反対側の
岩場の影へとあっという間に姿をくらました。見かけの剛とはうらはらにタウラスのアルデバランは
「小さくて可愛らしいモノ」がとてもとても大好きだったので、猫が消えても尚その残像を脳裏で描
いてしばしうっとりと耽った。たっぷり一分も立ち止まってから、やっと再びその足を次の石段へと
持ち上げる。
「シャカ…の猫か」
 まだそうと決まった訳ではないが、まあ、こんな山中に野良猫がまぎれこむことはそう多くあるま
い。ぱっと見では綺麗に手入れしてもらっていたようだし、飼い猫なのは間違いないだろう。それに
なんといってもここは獅子宮と処女宮の間、だ。
 アルデバランは気を良くした。シャカと直接話したことがほとんどない彼は、今まで聖闘士として
の飛び抜けた実力と恐ろしく淡泊な印象だけで乙女座を敬遠していた。まさか子猫を飼ってやるくら
いの人間味があるとは思っていなかったのである。
「…シャカか…意外と心根のイイヤツなのかもしれん」
 単純明快なアルデバランはそう思い、帰りにもまた猫と出逢えることをささやかに願った。



 魚座の聖闘士・アフロディーテは、久々に自宮から降りて聖域を離れ、下界での買い物を堪能して
帰ってきた。食料の買い付けや、バラ園の手入れにつかう肥料などは雑兵たちを使い走らせれば済む
話だが、好みの服となるとそうはいかない。
 両手にブランド系の紙袋を山のようにぶらさげて、とても世俗を離れた聖闘士・しかもその最高位
である黄金聖衣を持つ者とは思えぬあか抜けた風情でかろがろと十二宮への階段を上っていく。
 もともと無人の宮の多いここ十二宮だ。白羊宮・金牛宮・双児宮・巨蟹宮とその日は誰も居なかっ
た。巨蟹宮の主とはけっこう親しいので居ないのは残念だったが、だからと言ってわざわざ連絡を取
るほどの用件もない。
 そうして獅子座でようやく一人目の在留者・アイオリアと逢い、やあ、とかおお、とか、とにかく
それっぽっちの挨拶だけして通り過ぎ(彼とはあんまり親しくないし親しくなりたいとも思っていな
いので)、次の処女宮へと向かった。
 アフロディーテは処女宮の主が多分一番苦手だった。とても男とは思えない端正な顔立ち(自分は
棚上げ)のくせに、それを当人が全然どうとも思っていないらしいところが凄く気に障った。自分が
容姿に関してコンプレックスを持っていたからだ。
 アフロディーテにとって、美しいという言葉はあくまでも男性としての、それでいて極限の美しさ
を意味する。だから女みたいと言えば彼は激怒するし、「みっともないよりは綺麗でいたい」とは思
っていても男としての格好良さを失ってはならない、と常から気にしている。
 そんな訳で、顔を見るだけで落ち着かない気分になる相手が今日は宮の中に居ると気が付いて、ア
フロディーテはちょっと憂鬱になった。
 面倒くさいから無視して通ろう。多分相手は瞑想していて、こちらが無視すれば向こうも同じよう
に無視してくれるだろう。余計なことは口に出さないに限る。
 ひっそりと静まりかえった処女宮を、アフロディーテは足早に進んだ。果たしていつもの場所で、
主はいつものように黄金聖衣を纏い、いつものように座禅を組んでいた。
 ──だが。
「…シャカ?? なんだその…白いの」
 ただひとつだけいつもと違う部分があった。アフロディーテはさっきの己への決め事をうっかり忘
れてつい話しかけていた。
 シャカの膝の上には白い猫がちまりとのっていたのだ。しかもすやすやと気持ちよさそうに眠って
いる。
「アフロディーテか。…これは猫だ」
 ついと顎をかすかにあげ、シャカは答えた。大変明快な答えだったが、明快すぎて肝心の、アフロ
ディーテが聞きたいことはまるきりすっぽ抜けていた。もっともそれは彼が聞き方を間違えたとしか
言いようがないが。
「あ、イヤ、猫なのは判る。そうじゃなくて、なんでそんなとこに、ていうか、お前の膝に猫が居る
んだ?」
「拾った」
 これも明快きわまる答えである。アフロはなんとか言葉を脳に浸透させ、必死に理解した上で更に
尋ねた。
「お前が?」
「そうだ」
「何故? お前が飼っているのか?」
「なりゆきで世話をしている」
 アフロディーテはむむむ、と眉をしかめた。シャカに猫。十二宮に猫。瞑想に猫。なにやら判らな
くなってきた。
「ところで、アフロディーテ。何故私は君にそのような詰問をされねばならんのか」
 シャカはへろり、としか言いようのないやる気なさげな声音で尋ね返してきた。あいかわらず訳わ
からんヤツだ、とアフロディーテはあきれ果てる。
「お前と猫、という組み合わせが意外だからに決まっているだろう。…しかし、綺麗な猫だな。触っ
ていいか?」
 アフロディーテは従来の柔軟さで気持ちを切り替えた。もともと美しいものや儚いものを慈しむ心
は持っている。(それを切り捨てるかどうかは優先順位に寄るが)大人しそうな綺麗な白猫に、彼は
にわかに興味を持った。シャカは頷いた。
 アフロが近寄ると、猫は耳をそばだて来訪者の気配を探るように髭をそよがせた。撫でると目をう
っすら開け、また閉じた。ガラス玉みたいな真っ青な瞳。
「…雑種だな…」
 言って、ふと懐かしい故郷を思い出す。自分が生まれた家にも確か猫が居た。寒い地方に多いふさ
ふさしたモップみたいな猫だった。
「そいつ、ずっとここで飼うのか? シャカ」
 確か、十二宮で動物を飼ってはいけないという決まりはない。だが、地に足つけて生きる獣は、元
来この聖域では暮らしにくい筈だ。しかも闘いが起これば岩は砕かれ大気は鎌鼬となり超常の力があ
らゆるものを焼き尽くす。こんなかよわい小さな猫など、ただ一度のささやかな偶然で消し飛び、肉
片も残らないだろう。
「雑兵どもが気まぐれにボール球代わりにしないとも限らない。どこかもっと、違う場所に逃がして
やった方がよくないか?」
 アフロディーテは珍しくも感傷的な気分でそう言った。が、シャカはちょっと気分を害したように
言い返してきた。
「雑兵どもがそのような振る舞いをしたら、私はそやつらをボール球にしてやる」
「…あ、そう。ならいいけど」
 いいけど、というのも変だが、アフロはもうそれ以上は言わないでおいた。猫…は嫌いじゃないし
シャカに猫、というのも悪くない組み合わせだと思えてきたからだ。
 どうせいつかは死ぬイキモノなら、どこでどう暮らしても同じだろう。
「じゃあな、また」
 アフロディーテは言いながら、処女宮を立ち去るときに「またな」なんて言ったのは初めてだ、と
改めて気付き、またそれも悪くないと思うことしきりだった。




 §  §  §  §  §  §  §  §  §  §  §  §  §  §



「マヤ、マヤは何処にいる」
 アイオリアが猫を呼んでいる。シャカはとろりとした眠気の中で猫の所在を確認しようと手を伸ば
した。柔らかな感触が指先に当たった。
 猫は自分の頭の近くでくるりと丸まって寝ていた。
 思えばこの猫とも長いつきあいになる。青銅たちが本物の女神を連れてこの十二宮を昇ってきた折
には一体どこに逃げのびていたのか、闘い終わってほどなく、なにごともなかったかのように姿を現
してくれた。さすがに己の気配りのなさにシャカも反省し、聖戦が始まろうという時期には、ムウを
頼ってジャミールに預けた。(ムウの弟子だという子供「貴鬼」が世話してくれていたらしい)まさ
か自分が生きて十二宮に戻ってくるとは思いもせず、再びムウが連れ帰ってくれたときにはずいぶん
感慨深かったものである。
 マヤ、という名前はアイオリアがつけた。
 マヤは仏陀・つまりシャカ族の王子シッダールタの産みの母君である。言い伝えではマヤがシッダ
ールタを産む際、九つの牙持つ白い象が右の脇腹から己の中に入り込む夢を見たという。白いのと、
シャカから連想しただけという安直な命名(それにしては尊い名ではある)を、当のシャカが気にし
なかったのでそのまま呼ぶようになった。
 尋常ならざるシャカが世話しただけあって、マヤも普通とは言い難い猫に成長していた。
 まず、どう見積もっても彼女(雌である)は人語をかなり正確に解していた。更に一度遭った人物
は絶対に忘れない。そして、自分の救い主であるシャカを、猫とは思えないほど忠実に愛し抜いてい
た。
「シャカ、まだ寝てたのか」
 アイオリアは勝手知ったる風に、寝室まで入ってきていた。シャカはあまり寝起きが良くない…い
やむしろ最悪で、どんなにこっぴどく叩き起こしてもしばらくは目が半分しか開いていなかったりす
る。今日は大分前から微睡み状態だったのでややマシだが、それでも口など聞ける訳はなかった。
「マヤもここか。ミロがまた猫缶を大量に買い込んでくれたぞ。後で礼を言いに行ってこい」
 今日の朝飯も用意してやったぞ、と告げる声に猫は耳だけを傾けた。主が起きるまでは自分も起き
あがるつもりはないらしい。
 アイオリアは、ため息をついてシャカの寝顔を覗き込んだ。寝顔、とはいえシャカにはもうおぼろ
げながら意識がある。ただ目が開かないし口を聞く余力が無いのだ。それは勿論、長いつきあいであ
るアイオリアは知っている。
「そう無邪気な寝顔を晒されると…いつもながらたまらんものがあるな」
 ふと、そんなことを呟いて、アイオリアはかがみ込んだ。
「…起こしてやろうか? 盛大に目が覚めるように」
 シャカの耳元に生暖かい吐息と囁きをふきこむ。ひくり、と白い肩が震えた。抗議するほどまだ理
性が働かない。ただ本能だけでみじろぐ。
「ッ…ン…」
 ゆったりとアイオリアはシャカの上に覆い被さった。額や鼻筋に小さなキスを落とし始め、唇をつ
いばみ段々と深く口づける。漏れる吐息は少しずつ苦しげなものに変わっていく。
「…ア…ィ…リア…ッ…」
 シャカが必死で半分ほど目を開けるころにはすっかり全裸に剥かれていて、どうにも逃げようのな
い状態となっていた。シャカは狼狽え、小さな悲鳴をあげた。
「ちょっ…イヤだ…ッ…待て…」
「ダメだ。もう待ったはきかん」
「ン…!!」
 強引に再び唇を犯す。震える手でしがみつくシャカのほっそりした背を撫で、本格的に抱きしめたア
イオリアは不意にわき上がる殺気に気が付いた。そして。
「うあッ!!」
 マヤがアイオリアの肩に飛び乗り、バリバリと盛大にひっかいた。愛しい主人が陵辱されていると思
ったのだろう。
「いい加減にしろ! マヤ! 俺はお前の主人を虐めている訳ではないぞ!」
「………(汗)」
 今日のところは猫に救われたシャカである。が、無論アイオリアの手によって、また或いは主人であ
るシャカに宥められて時折扉の外に追い出され、しばしセツナイ思いで待つことになったりも、する。



「なあカミュ。コレコレ」
 ミロが差し出したものは、棒切れの先っぽに羽根のようなものがついている、いわゆる猫のおもちゃ
だ。カミュは呆れた目で友人を見返した。
「またそんなものを買い込んで…」
「だってさ、マヤ、あいつ、たまに俺の宮まで来てくれるんだぜ。かわいいの。こないだも一時間くら
い遊んでやったんだ」
「遊んでもらった、の間違いだろう」
「なんだよそれ、とにかく、今日また遊んでやろうかと思って」
 カミュはため息をついた。聖戦も終わってすっかり暢気になってしまった十二宮の面々はそろいもそ
ろって猫バカどもだ。(自分もそれに含まれていることをカミュが気が付いていない)昔はもうちょっ
と理性が働いていたのに、十一名が互いの相互理解を深めてくれたおかげですっかり手加減がなくなっ
たらしい。
 が、猫いっぴきで大騒ぎという十二宮の方がいっそほのぼのしていていいのかも、しれない。カミュ
はそう思ってまたひとつ、ため息をついた。




 …そんな感じで、日常は過ぎていく。













シャカ様が猫なんぞ飼うか、とゆーツッコミは梨で。どうせ偽シャカ。パロ故。