目眩



                                             


 遙かインドの奥地から、当人が望みもしないのに無理矢理ギリシャまで連れてきた。
 乙女座の聖衣がその小さな子供を己の所有者として認め、そのせいで聖闘士としての過酷な運命を
背負わされ。…誰もが望んで「希望の戦士」ともいえる聖闘士となる中で、おそらくたったひとり、
修行もしないのに聖闘士としての位を持った。しかも最高位である黄金の聖衣を。
 …その子をこの聖域に連れてきたのは、確か自分だった。
 サガは舌打ちをして、首にかかったロザリオを投げ捨てるようにテーブルの上に置いた。



「教皇様、乙女座のシャカ様が謁見の間にいらっしゃいました」
 サガは控えの間から自分を呼ばわる雑兵の声に、ため息をついた。勅命から戻ってきたのだろう。
相変わらず仕事の速い。
「…わかった。支度をしてゆく故、しばし待たせておけ」
「はっ」
 足音が遠ざかるのを聞いて、もうひとつため息。
 サガは、ぼんやりと巨大な鏡に自らを映し出す。かつてその、乙女座が幼い頃、自分の内にひそむ
邪悪な気配に気が付いて恐ろしい忠告をしたことを思い出し、低く呻いた。
「何故、自分で自分を殺そうとするのか。暴かれる前にすべてを破壊するのか」
 あの子の真っ青な目が、己の二面性を見抜く。その恐ろしさ。
 前教皇を人知れず始末し、女神の生まれ変わりを殺害しようとし、射手座のアイオロスに全ての罪
悪をなすりつけて抹殺命令を出した現教皇。その正体は双子座・ジェミニのサガ。
 アイオロスを放逐してからもう十年近くが経つが、その間に己の正体をサガと知りつつも変わらず
教皇として仕えてくれる黄金たちが出来た。蟹座と魚座だ。彼等にも色々思うところがあり、正体を
知られてしまったからにはせいぜい更に裏切られないよう気を遣ってやらねばなるまい。だが。
(未だに判らぬ…何故あの乙女座が…私に変わらず忠誠を誓っているのか)
 乙女座・バルゴのシャカ。最も神に近い男と呼ばれ恐れられ、人間味のカケラもない態度とできす
ぎた人形としか言いようのない美しい容姿の聖闘士。強大な小宇宙は幼い頃より完きセブンセンシズ
を備え、万一敵対するような羽目になったら自分でさえ到底無事ではいられまい、とサガは思う。
 ところが、実際にはシャカは大人しいものだった。勅命だと一言申しつければ礼儀正しく承りまし
たと答えて忠実に任務をこなす。もちろんシャカに命ずるような勅命は特に厳選した。他の聖闘士で
も問題ないような軽めの仕事は回さず、彼の強大な能力を是非とも必要とするような、…例えば天災
などに対応する救済の役目や、通常なら数人の聖闘士を派遣するきつい戦闘を。シャカが勅命を果た
さずに帰ってくることは決してなかった。
 サガは、己の内に潜む邪悪を心から憎んでいた。そして、許されるならば本当は今すぐにでも命を
絶ちアイオロスや前教皇に詫びたかった。だが女神不在の今、教皇の座をうかうかと空位にし、この
聖域を他の「侵略者」たちの絶好のターゲットとして晒すことは絶対に許されないことだった。
 …預かってしまったものは、責任を持って守り通さねばなるまい。そんな手前勝手な言い分で生き
恥をさらすことを、前教皇やアイオロスが許してくれるとも思っていないが。
(あのシャカが、女神が神殿におられないことを知らぬとも思えんが…)
 だが、それに関してはまったくの買いかぶりだった。シャカは、女神の小宇宙がぼんやりと女神神
像に宿っていることで、不在なのか眠っているのか、はたまた計り知れない神の意志によって世界の
どこかに移動しているのか、実は判っていなかったのである。
 また、女神は神とはいえ現世に肉体を持って産まれいでた存在。女神としての本当の力が覚醒する
ためにはまだ数年の年月と、…それから試練を必要としていた。故に、女神の居所を常に憂慮してい
たサガにも、まさか彼女が日本という小さな島国でどこぞの財閥令嬢として育っているとは露ほども
想像できないでいた。
 シャカか。…彼と会う時には本当に気を遣う。
 何しろヒトの心の奥深くまで見通す底知れぬ男なので、不穏な気配を微かでも感じさせる訳にはい
かないのだ。身のうちにひそむもうひとりの邪悪な自分が声をあげて笑っている。
 自分の正体にはどうやら本当に気が付いていないらしい。それも、この十年近くずっとだ。シャカ
という男は幼い頃に自分をここに連れてきた双子座の聖闘士を良く覚えていないらしい。或いは前教
皇と自分とを混同して覚えているのか。なにしろシャカは前教皇とはたった一度しか逢わず、しかも
謁見のとき自分と教皇とは同席していたのだ。
「…あと何年か…」
 いつか、女神にこの命と共に聖域を返すときがくるまで。邪悪な自分を制御しきれなくなるその瞬
間まで正義のために尽くさねばならない。例えそれが針のむしろであっても。



「教皇のおなりでございます」
 雑兵の言葉に、シャカは静かに頭を下げ待った。この聖域で神の化身である女神に次いで権威ある
存在。実質上神の代行者であり聖域の最高権力者。いくら己を「最も神に近い男」と認めているとは
いえ、それはあくまで言葉の問題であり、実際に敬意を払うべき存在が自らの上にも居ることを、さ
すがのシャカも承知していた。
 教皇が静かに現れる。いつもながら雄大な小宇宙を携えて。
「…??」
 が、今日は何故か陰鬱な気配がひどく強かった。教皇は時折こうして激しく憂いているような小宇
宙を感じさせることがある。いったいどうしたのだろうか。
「シャカよ、此度の任務について報告せよ」
「…は」
 シャカは、しかし余計なことは言わないでおいた。自分の口挟むようなことでないならば(例えば
プライベートな問題だったら)失礼にあたる。聞かれない限りは聞く必要もない。
「救命に赴いた村は私が到着した時点で水没しておりました。生存者は可能な限り高台まで移しまし
たが…いささか救い切れぬ者もおりまして…」
「そうか…やはり少し遅かったか。余の采配ミスであろうな。もう少しそなたを早く派遣してやれば
よかったが」
 シャカは、ふと顔をあげて教皇をうかがいみた。何故だろう。今日は特に、教皇の様子が気になっ
てしかたがない。いつもと大分、気配が違う気がして。
 …だが判らない。感じるのはいつもの強い小宇宙、それから哀しみだ。
「いえ。いかに教皇とて世界中の天災をすべてお見通しという訳にはいきますまい」
「…うむ…しかし邪悪なる者たちの前触れでないのはまだしもだな。ご苦労であった。シャカよ、さ
がるがよい」
「は」
 シャカは、微かに一礼し、そしてすぐに立ち上がって踵を返した。教皇の視線が自分の背中に強く
つきささるのを感じながらシャカはその場を後にした。



 どんな運命のいたずらだろうか。その後すぐに、シャカの背後で恐ろしく黒い気配がうごめくのを
肌で感じ、シャカは足を止めた。真剣に小宇宙を探る。
 おかしい。この気配は確かに教皇の筈なのに、まったく別人のように感じられる。いや、むしろ本
当に別人か…何かに精神をのっとられたかのような…。
 教皇が、酷い罪悪感のようなもので時々うちのめされていることはシャカは気が付いていた。それ
は人間としては別段珍しいことではなく、この聖域で女神に次いでエライ教皇でさえも人並みの悩み
があり、なまじ正義感で溢れているために罪悪感も尋常でない強さなのだろう、と勝手に思いこんで
いて、肝心の原因やら、にはまったく関心がなかった。ヒトがヒトである限りそんなものは尽きせぬ
雑事だ。いちいちかかずらってはいられない。
 だが、何故か今日に限って警鐘が鳴っていた。自分は何か、とんでもないものを見落としている。
いくらヒトには悩みがあるとはいえ、こんな異常な黒い小宇宙を聖域内で放置させておいていいのだ
ろうか。他人は他人、と放っておかず、もっと真剣に考えるべきではないのか。
 シャカは、一旦出た教皇の間に再び戻ってみた。取り次ぐべき雑兵はもうどこにも居なくて、無人
の広間をシャカはすたすたと奥に向かう。今まで一度も奥まで入ったことはないが、声くらいかけれ
ばそれほど無礼ではあるまい。
「…教皇? 不穏な小宇宙を感じました故バルゴのシャカ、お伺いに参りました。…入ってもよろし
いか?」
 返事はなかった。代わりに何かじゃらりと、鎖のようなものを投げ捨てるような音がした。
「教皇? お加減でも悪いのでしょうか」
 シャカは数瞬躊躇したが、構わず入ることにした。ダメならダメという筈だし、邪悪な気配をこれ
以上放っておけないと思ったのだ。だが、分厚いカーテンをめくり、教皇の私室へと足を踏み入れた
シャカは、すぐ目の前に教皇その人が仁王立ちしていることにぎょっと身を竦めた。
「…雑兵ならば殺して終わるのにな…よりにもよってお前とは…」
 シャカは茫然と見上げる。未だ少年の過程を終えないシャカは聖衣を身につけてもほっそりと頼り
なげで、目の前に立つ教皇の胸の辺りまでしか背丈がない。
「きょ…教皇……?」
 マスクを被った教皇の表情は窺い知れない。だがどす黒い気配は確かに目の前の彼からする。どう
対処してよいか判らず、珍しくも酷く狼狽えた面もちで見上げたシャカの眉間に向かって教皇は光速
拳を繰り出していた。



 小さな時から、さりげなくずっと、成長を見守ってきた。
 自分が聖域に連れてきてしまったという罪悪感もあり、また一目で己の二面性を見抜かれたという
恐怖もあり、目を離せなかったのだ。サガは教皇の仮面を被りながらシャカの様子を可能な限り見て
いた。
 シャカは、他の十二宮のメンバーから激しく浮いていた。敬遠されていると言ってよかった。他人
と決して交わろうとしない態度が周囲の者を苛立たせるのだろう。シャカはいつもひとりで瞑想し、
ひとりで行動した。孤独さは彼を自立させはしたが、精神面での成長を大して促さなかった。故郷で
も多分そんな感じで暮らしていたのだろうと想像できた。
 シャカは、不用意に人が奥底に秘めた心を暴くことがある。例えばサガに対する言葉がそれだ。し
かし当人は感じたままを空気のように口から出しているだけで自覚はない。それを己で吟味し、相応
しい態度で相手に返してやるには、シャカはあまりにも他人というものを知らなかった。
 シャカを純粋無垢なまま成長させたのは、ただ彼自身のまっすぐな本質それだけだった。
「…教皇……?」
「お前がうかうかとここまで覗きにやってくるとは…意外だった。十年も聖域で暮らして、少しは人
間らしい好奇心を身につけたとみえる」
「覗き……?」
 シャカは震える手で教皇の法衣にしがみついた。そうしないと立っていられなかったのだ。身体中
から力が抜けていく。頭の奥で凄まじい…凶暴な力が己の意思を奪おうとしている。
「何を…なさったのです…」
「さすがは最も神に近いと言われるだけはある。お前の精神は…いかな私の力でも、支配することは
不可能らしい。だが」
 教皇はぐいと乱暴にシャカの身体を引き寄せた。掌に力を集め、シャカの聖衣を強引にはぎ取って
しまう。乙女座の聖衣はあっという間に主の身体を離れ、少し離れた処で祈る乙女の姿として合体を
完了した。シャカは微かに呻いた。
「お前の肉体は割合に脆い。聖衣を外せば支配下に置くのは造作もないことだ」
「なに…を…」
 シャカは動転していた。産まれてからこのかた、これほど焦ったことはないだろうというくらい脳
内がパニックになっていた。自力でどうにもできない状況というのが、まさかこの自分にもやってく
るとは思ってもいなかったのだ。
 渾身の力を込めて己の自由を取り戻そうとやっきになる。が、集中できないそんな状態ではいつも
の半分の力も出ないらしい。ますます狼狽えて、蒼白な顔を教皇に向ける。
「お前がそう頼りない顔をするとは…珍しい」
 シャカは、とうとう目を開いた。その瞬間に爆発する小宇宙で支配下から逃れるつもりだったのだ
が、相手も予期していたのか、それでもかろうじて教皇の力が上回っていた。というより不意打ちで
幻朧魔皇拳を受けてから、シャカの小宇宙は乱れて良く練れなくなっていたのだ。
「…綺麗な瞳だな…いつも開けておればよいものを」
 ふと、笑みまで浮かべてサガは呟く。あの時の小さな子供…自分が無理矢理連れてきた。
 そうして今も、更に深い辛い網の中にからめとろうとしている。こんなことをしでかして、それで
もシャカはまだ自分を教皇として認めてくれるのだろうか…。
 サガは、もう一度シャカに拳をくらわせた。それは精神ではなく身体の自由を奪うもので、それを
繰り出した彼は、一切合切を諦めたかのように陰鬱な表情になっていた。
 邪悪な気配は優しい温かな気配と混じり合い、やがてうっすらと沈んでいく。
 シャカは自由を奪われた状態で、その様子を茫然と窺っていた。
(…教皇が…まるで…二人居るようだ…)
 その表現が、多分一番相応しく思えた。時折感じた酷い罪悪感は、このもうひとつの自分を抑制す
るためにあったのか。この方の内面に、これほど計り知れない哀しみがあったのか。
 シャカはあまりにも他人を知らず、あまりにも無知であったために、ただ目の前につきつけられた
ものをありのまま受け止めるしかなかった。教皇は身の内に悪魔のようなものを飼っている。
 …そしてそれを外に出さない為に、人知れず闘っているのだ。
「落ち着いた目になってきたな、…よもやこういった事には慣れているのか?」
「?」
 シャカは、裸に剥かれてベッドに放り込まれても、教皇の気配にばかり気を取られていた。言われ
てやっと自分のおかれた状態に気が付く。が、気が付いたところで指一本自由にならないのではどう
にもなるまい。
「こういった、とは、どういった?」
 サガは笑った。もしかしたらこのまま仮面を取って私はジェミニのサガだと名乗っても、シャカは
平然と受け止めてくれるのかもしれないとすら、思った。
 いや、しかし、ダメだ。シャカは自分が「教皇」だから従っているのであって、ジェミニのサガが
成り代わっていると判れば流石に抵抗するだろう。彼の正義の基準はいい加減知っている。
「私は…死ぬまで…死んでも聖域を守りたいのだ…。そのためにどんな犠牲も払おう」
「…それは…承知しております…」
「だからお前の口も、封じておかねばならんのだよ…」
 シャカはぱちくり、とまたたいた。封じられるような覚えがないからだろう。
「私が何を下々に流布すると? 貴方が制御し難い悪魔のようなものを飼っている、と?」
 サガは笑った。そこまで判っているのなら話は早い。
「悪魔と言ったか。その通りだ。この教皇が、一片の曇りもなく正義と愛に満ちあふれているべきこ
の「女神の代行者」が、そんなものに支配されていると知られる訳にはゆかぬ」
「一片の曇りもない人間なぞ、この世にはおりませぬ」
 サガは更に笑う。そうしてシャカをベッドに縫いつけた。
「お前も、か? シャカよ」
「当然です…私とて」
「──まあよい。私はお前を支配するだけだ。…精神がダメなら肉体をな」




 シャカは、ぼんやりと薄闇で目を覚ました。
 あれから教皇に、思う様身体中を嬲られ、犯され尽くした。仮面を取りもせず、僅かに息を荒らげ
る程度でほとんど乱れた様子も見せない教皇に、この自分は泣き叫び喘ぎ悦びの声をあげ、気を失う
まで抱かれたのだ。
 屈辱だ、という心よりも、不思議な胸の痛みが上だった。切ないと思った。
 肉体の支配に何の意味があろう。教皇は本当にこんなばかばかしい仕打ちで自分を支配したとでも
考えているのか。
 さきほどの己の痴態を思い出し、シャカは唇をかむ。頬は止めようとしても赤らむ。それでも屈辱
よりは切なさが先だということにシャカは自分でも驚いていた。
 多分、自分は教皇という存在を酷く神聖なもののように思っていたからなのか。
(所詮は人間…肉欲から自由になれる筈もない…)
 その浅ましさは自分も同じだ。だから…耐えられない仕打ちではない。むしろ、そんなことをする
教皇にやや失望を覚えた。それだけの問題だ。
「…ッ…」
 シャカは必死で身を起こした。途端に吐き気が襲ってきてしばし口元を覆い、耐えなければならな
かった。神に最も近い男と呼ばれるこの自分が娼婦のように扱われたとは、この状況であってもなお
信じたくなかった。しかしこの気分の悪さは現実だ。夢ではない。
 部屋の中をひっそりと小宇宙で探る。部屋の主は近くにはもう居なかった。ただ、そこら中に哀し
みの小宇宙だけが満ちていた。教皇のいつもの気配だった。
 このまま彼が戻ってくるのをベッドで、間抜けに待つのは御免だ。時刻は判らないが、たとえ夜に
なっていようと己の二本の足で処女宮まで戻る。頭の中はいまだに大混乱状態で、しばらくひとりに
なりたかった。
「…シャカ様…? いらしたので?」
「まあシャカ様。教皇はご入浴中ですが」
 聖衣を身につけ、教皇の間を出る。長い廊下で幾人かの雑兵が乙女座の姿をみとがめ、おそるおそ
る声を掛けたがシャカはそれらをまったく無視した。よろける足取りを気付かれてはならない。
 外は夜だった。教皇宮を出て、すぐ下の双魚宮をみやる。
 それから次の宝瓶宮、磨羯宮、人馬宮、天蠍宮、天秤宮と経て己の処女宮。長い道のりだが歩ける
だろうか。異次元を通る手だても考えたが、この状態では制御できない可能性がありやめておいた。
 石段を何段か下り始めたところで、ぼんやりと振り返る。すい、と珍しく青い目を開けて。
 いつも自分は見るべきものを見ず考えるべきものを考えなかった。それが判った。
 万物は流転し、世界は無常のうちに構成され、人の意思が介在する余地はない。それが悟りという
ものだとシャカは思っていたが、…本当はそうではない。悟った風を装って何事にも無関心であれば
無傷でいられると本能で避けていただけなのだ。
「何を信じるべきかも、己で判断できぬとは…」
 シャカは呟き、それからまたよろめくように石段を下がり出した。



 数日後、何事もなかったかのように教皇は再びシャカを呼びだした。
 サガはシャカの態度を確かめるつもりだった。乙女座が自分を見る目が、果たしてどの程度変化し
ているものなのか。
 シャカは命令に背いたりはせず、いつものように大人しく教皇宮に赴いた。
 丁寧に頭をさげ、儀礼的な口上を述べる。それをマスクの下からむしろ面白そうに眺めたサガは、
シャカの気配が初めて極限までとぎすまされているのを感じた。いつもは無頓着で無駄に強大なだけ
の彼の小宇宙。それが緊張にひきしぼられている。
 サガは、そのシャカの気配を怯えと感じた。さすがのシャカでも、あのような仕打ちをされて心の
内は穏やかでないらしい。表立って反抗してこないのは彼なりの理性であり、或いは何か別の意図が
隠されていたにせよ、この間のことを公にするつもりはないようだった。
 サガは決意した。──この乙女座は手放すまい。
 どんなことをしても。
「今日これから、余は聖域周りを視察にゆく。そなたに供を命ずる」
「視察…でございますか」
「そうだ。一月ほど政務が滞っていたので外に出る機会がなかなか作れなかったが、今日は少し余裕
がある。そなたも十二の宮を預かる黄金ならば、聖域を囲む人々の暮らしぶりくらい、きちんと見て
おくがよかろう」
 シャカは不安そうな顔でちらと見上げた。目は閉じたままでも緊張しきった表情は伺える。本当に
面白い、とサガは思った。なるほど、一度手の内に入れてしまえば子猫のように容易いのか。
「…わたくしで良ければ、お供致します」



 ロドリオ村は穏やかだった。教皇が珍しく視察に降りていると聞いて幾人もの村人がかけよってき
てはその場にひれふしていく。そんな光景を見るのはシャカは初めてで、改めて教皇という存在の不
気味さを肌で感じた。偉大、ではなく、不気味だ。
 教皇の小宇宙はどこまでも静かで雄大だった。うっすらとこの間のかげりが感じるが、気にもなら
ない程度で、あのどす黒い気配の片鱗など何処にもない。シャカはぼんやりと斜め前方を歩く教皇を
みやる。
 自分が見ている教皇は夢か幻か。それともこの間自分を抱いた男がそもそも夢か。
(いや、夢などではない。…夢であったらよかったろうが…)
 教皇が、少し歩調を緩めて自分と並ぶ。その影に知らずぎくりとし、次いで親しい友にするように
教皇の手が自分の肩に回されて更に身を固くした。サガは他人には聞こえない声でひっそりと、シャ
カをたしなめた。
<生娘のように怯えてくれるな…シャカ。村人が不審に思おう>
 笑いさえ含んだ口調に、シャカはますます混乱する。なんだ、この状況は。対処できない。
<そう固くならずとも、こんな場所でそなたを抱いたりはせぬよ…>
<ッ…教皇! 私は貴方の玩具ではない!>
 思わずばっと手を振り払う。突然の仕草に驚いた村人の一人がシャカを怯えた目で見てきて、それ
に気が付いたシャカはやむを得ず態度を軟化させた。
「何か不自由していることはないか? 私でよければ手を貸そう」
 教皇はそう言ってシャカから離れて、村人たちの間に入っていった。それを見送り、シャカはまた
どう対処していいのか判らない自分を持て余し、その場にしばらく立ちつくした。



 戻り際、処女宮で別れを告げようとしたシャカは、教皇に「供は最後までするものだ」と言いつけ
られて渋々教皇宮まで付き合った。
 もう教皇を神の代行者としてあがめる気持ちはすっかり薄らいでいた。代わりに、この方も人間な
のだと痛切に感じた。ただ、どれほどの悪魔を飼っているのかは判らないが、彼でなければあの悪魔
を制御できないのだろうとシャカは思う。
 だとすれば、教皇は職務としての教皇を守り抜いているだけで、一介の聖闘士である自分が口を挟
む余地はない。…まさか本物の教皇を彼が殺していたとは、さすがに考えもしなかった。そこまで事
態が深刻だとは、シャカが結局気づけないままだったのである。
 二人は教皇の間まで戻り、それから寝室の方に誘われた。一度はもちろん辞退したが、教皇は面白
そうに「命令だ」と言ってきた。死ぬ気で反抗する気はなかった。初めてだったら、多分そうしたの
だろうが…。
「そなたは勅命とあらば娼婦となることも厭わぬのだな…感心なものだ」
「命令に逆らうなと言ったのは貴方です」
「自尊心を問うておるだけよ」
「…貴方は…私を試しておられるのか!?」
 シャカの激昂した言葉に、教皇は含み笑う。その通りだとも。
「良く判っているではないか、自分の立場を」
 言って、傍近くに引き寄せる。シャカはきっ、と青い目を向けた。
「マスクをお取りになったらいかがです?」
「できぬな。そなたがそうして珍しく眼を開き、余の素顔を探ろうとたくらむうちはな」
 シャカがますますきつい眼差しで睨んできた。サガは仮面の下で恍惚と微笑む。
 目眩にもにた戦慄と、それから悦び。支配欲。それらすべてが混然となって、網にひっかかった哀
れな乙女をこれから引き裂くのだ。
「ゆるりと、調教してやろう…なあ、シャカ?」
 シャカはそれでもなお、目の前の男を邪悪だと認めることはできなかった。
 そして多分それは、彼の罠だったのかもしれない。













シリアスさがしゃかにちゃれんじ。