蒼穹



                                             


 その日も、うんざりするほど良く晴れ渡った青空だった。ギリシア生まれギリシア育ちのミロにして
みれば、真夏の盛りにこの聖域が晴れていない日なぞ滅多になく、従ってどれほど美しい蒼穹にも大し
た感慨はなかった。それどころか憎々しいとさえ思った。
 …毎日、呆れかえるくらい人気のない十二宮。
「むかつく…」
 蠍座・ミロは今年の秋で十四歳を迎える。つまるところまだその一つ下なのだが、およそ6つの歳に
この聖域にやってきて十二宮のひとつ・天蠍宮の主となるべく認められてから6年ないし7年間をこの
異常ともいえる閉鎖空間で生きてきた。仲間と呼べる人間は同じ十二宮の守人たる黄金たちのみ、しか
もその半数は常に宮を空にし、或いは初めから不在だったりした。よりにもよってその不在宮の2つが
天蠍宮の上隣・下隣だったりもして、天蠍宮は孤独なことこの上ない。
 ミロは、元来とても闊達な人間だった。良く言えば明るくおおらかで、ちょっと悪く言うなら野放図
でやや直情気味だ。その性質は年月が経ってもそう易々と変わるものではないが、そのミロの明るさを
大いに翳らせるほど、聖域はいつもとても静かだった。ミロはいい加減鬱屈していた。
「また…シベリアにでも行くか…」
 誰に言うともなく呟いて、しかしミロは黙り込む。幼いときから一番親しい水瓶座とはできるだけ積
極的に交流を図っているのだが、何しろ親友は弟子を二人も持っている。当然修行のために十二宮外で
住まいを構え、忙しさの為になかなか聖域には戻ってこない。退屈を持て余して今年の夏はもう3度も
訪れた。もういい加減我慢の時期だ。
「…やめた。めんどい」
 同じように十二宮内で住まう獅子座のアイオリアのことをミロは思い出す。ヒマを持て余したときに
一番話し相手になってくれるのが彼だ。カミュに次いでそこそこ気心の知れた友人と言っていい。しか
し聖域純粋培養の獅子座は三度のメシよりトレーニング、といった鍛錬趣味で、毎日飽きもせず青銅や
白銀や、それらの弟子たちの指導を手伝ってやっているので、実はミロほどには退屈を持て余したりは
しないのであった。こんな真っ昼間から彼を捜しに行けば最後、必ずその訓練にミロも付き合わされる
ことになろう。今日はそんな気分ではなかった。
 自主練はまだ涼しい午前中に済ませた。自分でも少し不真面目とは思うが、気乗りがしないときはど
う頑張ってもダメなので、ミロは早々に諦めた。昼寝を決め込んでも、ここ数日は気怠さにすぐ起きて
しまう。早々に別の用向きを探す必要がある。
「ええい、つまらん。寝られもせんとはどーゆーことだ!」
 ミロは吐き捨てるように言って、寝転がっていた窓際のソファから立ち上がった。くしゃりと豪奢な
金の髪をかきまぜつつ、己の宮を足早に飛び出す。とにかくもう同じ場所には居られなかった。



 あてもなくふらりと石段を下りる。
 最初は昇ってみようかとも思ったが、誰にも出逢えなかった場合、行き着く先は教皇宮なのでやめて
おいた。女神神殿には教皇のお許しもなく入れないし、教皇その人にもお呼びがなければ用はない。そ
れならまだしも下がいい。選択の幅が少しはある。
 無人の天秤宮を抜け、どうせ居ないだろうとたかを括って処女宮も通り過ぎようとした。だが、声も
かけずに宮内をくぐり抜けたその瞬間、カケラほども感じなかった主の小宇宙がずわりといきなり出現
し、みるみるうちに増大していく。ミロはぎょっと立ち止まった。
「…ミロ」
 次いで高い声が背後からした。あんまりびっくりしてあやうく悲鳴を上げそうになるところをミロは
必死でおさえこみ、がばと振り向く。シャカがいつのまにやらひっそりと立っていた。
「なっ…なんだ居たのかシャカ! てっきり留守だとばかり…」
「ミロ。小宇宙が弱っている。何かあったのかね?」
 ミロはあわわと言いつくろおうとし、…それからシャカの言葉にますます目を見開いた。
 弱っている? そんなこと言われたの初めてだ。
 ていうかコイツにそんな風に心配(心配?だよな?)されるなんて思いもしなかった。
「…弱ってなんて…ない」
 とっさにそれしか答えられず、ミロは難しい顔をした。シャカは一瞬ひそかに眉をしかめたが、すぐ
に「そうか、ならいい」と答えてあっさりと踵を返した。と同時にシャカの気配が滲むようにその場か
ら消え失せていく。
 居なくなる! そう悟ったミロは何故か咄嗟に呼び止めていた。
「シャカ!!」
 淡い金髪が揺れた。シャカはぴたりと立ち止まり、振り向く。
「まだ何か用が?」
「さっき、お前、俺が弱ってるって言ったな」
 ミロはどうにか彼をその場にひきとめようと懸命に言葉を探した。探しながら、そういえばコイツと
一対一で話したことなんてもしかしてコレが最初か?と思う。同じ十二宮に居て話したことがないだな
んて、良く考えてみたらなんてバカバカしい。
「…何か、あったのか?」
 シャカが、まるきりどうでもよさそうな口調でもう一度聞いてきた。これで、「そうなんだ実は」と
話し出しても鼻先で「ふん」とあしらわれそうな勢いだ。
 ミロは、にっと笑みを浮かべた。久し振りに笑った気がした。
「何もないから困ってるんだ」
「…?? どういう意味だ」
「いいから、シャカ。十二宮に居るなら居ると声くらいかけろ。凹むだろ」



 出入り口の付近で、ちょうど強烈な陽光で闇のように深い影が出来たその場所に、シャカは逡巡した
ように立っていた。少し間を置いて、すいと音もなくミロに近寄ってくる。
 久し振りに姿を見たな、とミロは感心したように見守った。まるで少女のような線の細い身体。いつ
もながらメシ食ってんのかと心配したくなる白い顔。きっちりと閉ざされた瞼、長い睫毛。初めて見た
ときから女の子みたいだと思っていたが、今もまだ女みたいだ。ケチのつけようのない綺麗さってこう
いうのかな、とそんなことまで考えてみる。
「お前、いつ帰ってきてたんだ? シャカ」
 とりあえず当たり障りのないことから聞いてみた。シャカは不思議そうに首を傾げた。
「帰って? …私は大概ここに居るのだが」
「ウソ! そうなのか? いつも留守っぽかったじゃないか」
「そんなことはない。確かにより深い瞑想の為に時折ガンガーへ赴くときもあるが、勅命と、それ以外
では処女宮を動くことはあまりない」
 初耳だ。ミロは唖然として同僚を見つめた。
「え、だってお前インドに住んでんじゃ…ないのか?」
「生まれ落ちた場所は彼の地だが、住まいなぞ無い」
「じゃあ…」
 唐突に納得した。自分と同じく6つかそこらで聖域に閉じこめられた少年がここにも一人居る。外に
住まいを持たず、宮を守護する以外の目的も持たず…。
 イヤ、本来ならば十二の黄金は例外なくそうあるべきなのかもしれない。聖戦とやらのために、唯一
女神のために集められた最強の守護者。
「知らなかった。…俺、いつもここは静かだから誰も居ないのかと」
 シャカは、ふん、と呆れたようにため息をついてみせた。
「どうでもいいことなので今まで言わずに置いたが、誰も彼も私を留守だと決めつける。…まるで宮を
守護していないかのように言う。私はここに毎日座しているというのに」
「…だって実際居ないように感じたんだ」
「それはキミが未熟だからだ。私の気配を感じ取れないキミが悪い」
 ミロはむっとして、澄ました白い顔をぎっと睨んだ。未熟と言われて黙って居られるほどミロは大人
しい性格ではない。
「未熟かどうか、闘ってみてから言えよ!」
「私闘は禁じられているが」
 更に取り澄ました表情でシャカはさらりと答えた。ますますいきりたつミロ。
「私闘じゃなくて訓練ならいいだろ! ていうかお前、俺と闘うの怖いのか! そんなほっそい腕して
雑兵にだって投げ飛ばされるんだろう!」
 シャカの眉がぴくっと動いた。雑兵にだって、の下りでこちらも黙っていられなくなったらしい。
「…そんなに言うなら手合わせしてやろう。来たまえ」
「えっ…」
 勢いこんで挑戦状をたたきつけた方は、といえば、また唖然と相手を見つめた。
 こんなに軽くケンカを買うようなヤツだったっけ? アレ?
「少し動けばキミのゆだった頭も冷える、一石二鳥だ」



 シャカとミロは、そのまま連れだって十二宮の階段を下りた。宮内で黄金同士が激突したら大変なこ
とになるだろうことは二人とも想像できたので、闘技場まで降りる算段となったのだ。私闘ではなく、
あくまでも訓練という言い訳もつけられる。本当はシャカとしては、沙羅双樹の園を提供してもよかっ
たのだが、あまりにも時期尚早という気がしたので、園の存在は伏せておいた。遊び半分で使う場所で
はないだろう。
 ミロは、内心で酷く驚きつつも、先をゆく細い後ろ姿にまけじと石段を駆け下りる。
「シャカ! まさかこのクソ長い階段降りる間に「やっぱやめた」とか言い出すなよな」
「心配せずともこのシャカ、一度公言したことを曲げるようなことはせぬ」
 言いながら、シャカは自分でも奇妙な感慨を覚えていた。この自分がまさか、冗談でも他の聖闘士相
手に「手合わせしよう」などと言い出すとは。
 後ろから血気盛んな小宇宙が追いすがってくるのを感じ、足を止めてしばし待つ。さっきまで感じら
れた曇天のようなミロらしからぬ気配は少しずつ晴れてきている。
 シャカは内心でひっそりと苦笑した。リアに負けず劣らず直情な蠍座だが、リアと違って時々ひどく
脆さを感じる。たとえば今日のように、何も変わらぬ朝を迎えて死にたくなりそうな。
(…リアと似ていて…却って違いを感じる…不思議なものだ…)
 多分、常日頃獅子座からミロのことを伝え聞いていたので、尚のこと気にかかったのだろう。
 確かに十二宮には守人が少ない。あまりにも少なすぎる。だから余計に、外に住まいを持つ他の黄金
たちは勅命でも下らぬ限りなかなか聖域に戻ってこない。
 守護人が宮を離れてどうする、との批判もあったが、テレポート不可の十二宮内はさておいても、通
常自在に空間を移動できる黄金たちに、四六時中聖域で暮らせという命令は無意味に等しい。
「他に行き場のない者は、確かに気鬱であろうな…」
「エ?」
 ミロが隣りに並ぶのを確認してシャカは再び歩を進めた。自分を待ってくれた、という事実一つとっ
ても驚愕の顔を隠せない蠍座に、シャカは平坦な口調で続けた。
「何をもって生くる糧とするか、それを定めるべきだ」
「なんだって?」
 シャカの生真面目な言葉に、ミロも表情を改めた。会話を成すことすら珍しいのに、なにか諭すよう
なことを言われるのは更に珍しいを通り越して驚天動地だ。
「迷っているから、小宇宙も曇る」
「……俺が、迷ってるって?」
 ミロは務めて冷静な声音を出した。そうでないと叫び出しそうだったので。
「そうではないのかね?」
 ぐっと詰まる。とても否とは言えない心境だった。…確かに。しかし下手をすれば1年ぶりくらいの
この同僚にも一目で見抜かれるとは情けない限りである。
…もっともこの乙女座は初めて逢う人間の秘めた奥底をいとも容易く暴くというから(アイオリア談)
この際それを恥じている場合ではないのかもしれない。
「…判らん。正直自分でも自分が良く判らなくなる。目的は見失っていない筈だ。だが時々…本当に、
空が青いことさえ憎くなる」
「目的と糧は違う。女神を御守りすることが目的というのなら、尚更」
「違うのか?」
 シャカの足取りはいたって軽やかだ。白っぽい布切れをまきつけただけの格好が眩しい陽光に容赦な
く晒され、透き通るような肌がいっそ痛々しい。こんな動きづらいナリで本当に闘う気があるのか非常
に疑わしいところである。
「女神を御守りすることは聖闘士にとって当然の義務だ。だが人であるならそれだけでは生きられぬで
あろう。糧がなければ」
「糧」
「肉体だけでなく精神を満たす糧のことだ」
 ミロはまじまじとシャカを見やった。この魂をどこかに置いてきたみたいな飄々とした同僚が、そん
な糧を得ているとはとても思えなかった。
「…おまえにはあるのか、糧」
「あるとも言えるし、無いとも言える。が、最終的に己が何処へ辿り着くかは知っている」
「何処だそれ」
「死の国だ」
 ミロは絶句した。そうしてそれきり、シャカも口を閉ざした。



 予想通り獅子宮から下は全滅…もとい全空状態だった。もっとも白羊宮と双児宮は初めから守護者も
居ない。少なくとも白羊宮の主はジャミールに引っ込んだまま決して、勅命が下ってさえ出てこなかっ
た。明らかな反逆の意図が見える。だが今のところは教皇も黙って見逃しているようだ。
 十二宮から更に降りると、巨大な闘技場が現れる。聖衣授与のための神聖なコロッセオだが、通常訓
練にも使われる。今日も白銀や青銅たちが訓練生を数人鍛えていた。
 そこに突如「予約」もなしに堂々と割って入る、たかだか十二〜三歳の少年二人。
「すいてるところを使うか? それともいっそどかすか?」
「雑魚どもを巻き添えにしたくなければどかすがよかろう」
「じゃあどける。…おいお前ら死にたくなければちょっと出てろ!」
 珍しい「黄金」二人が下に降りてきたことで、雑兵たちはにわかにざわめきたっていた。こういうの
が嫌いでシャカはできるだけ降りないようにしていたのだが(そしてそれはミロも同じだが)、今日は
贅沢を言う気はない。多少見せものになっても、納得がいく程度には対戦する。
 見かけはどちらも小柄な少年。しかもそれぞれ見応えのある綺麗な顔をしている。それだけでも目立
つのにまして黄金聖闘士。雑兵たちの中には当然彼等を黄金と知らない者たちも数多く居たが、年輩が
数人混じっていて我先にと敬意を示したのでおおよその予想はついたろう。
「そういえば、シャカ。聞きたかったんだが今いいか」
 ミロが不意に呟いた。シャカが振り向く。
「何故俺の相手をしてくれる気になったのか」
「くだらぬ。そんなことに理由がいるのかねキミは」
 ミロはめげなかった。
「要る。俺はお前の考えてることが知りたい」
 シャカは、少し黙った。どう答えるべきか考えあぐねている様子だ。そうしてやっと言った。
「キミが気張らしできる程度に動くには、少なくとも同じ黄金がよかろう。…だが水瓶の男は帰ってき
ていないようだったし、リアも今日は出ているからな」
 アイオリアはこの頃頻繁に神官たちのお付きをさせられているらしい(シャカが言った)。
 そんな些事、雑兵どもにやらせればよかろうに、と少し怒った風に付け加えていたところを見ると、
どうやらシャカは隣人が留守がちなのを残念に思っているようだ。この恐ろしく淡泊な乙女座が、獅子
座に対しては一応別格の愛着を持っているという証でもある。
「だから、その曇天のような小宇宙をやめたまえ。このシャカ自らが相手をしてやるというのだ。あり
がたく地に伏して拝むがいい。さあ始めるぞ」
 ミロはシャカの言った傲慢この上ない発言を、この上なく有り難く受け止めた。
 このシャカが、他人を顧みるとは思えないこの傲岸不遜な男が、俺の「気晴らし」に付き合ってくれ
るという。
 なのに俺ときたら空が青いのにまで腹を立てたりして…。
「───情けない…」
 ミロはぽつっとぼやいた。気持ちを切り替えようと目を閉じ、集中した。ええいくそ! 肉弾戦だっ
たら細っちいばかりのシャカには負けるもんか!!
「いっくぞーーーー!!!」



 そうして、今日数え切れないほど驚きまくったミロは、シャカとの対峙直後から猛烈に連続で驚き続
けたのだった。
「…うっそだろ……ッ…!!!」
 一体どうやって、いつ修行を重ねたというのか。それともすべては強大なる第七感の力か。シャカは
可憐な少女のような容姿を思い切り裏切ってとにかく俊敏だった。悔しいがハッキリ言って動きも追え
ない。こちらの攻撃なぞそよ風のごとくひらひらとかわし、その度にお返しの拳圧を見舞ってくる。幾
度も真正面から攻撃をくらって吹き飛んだミロは、シャカが目さえ開けていないことに愕然とした。
 …同い歳なのに同じ黄金なのにここまで実力に差があるのか。
 必死でシャカの足を止めようとリストリクションを仕掛けても、見えない空気の壁に阻まれシャカの
髪の毛一筋さえ止められない。悔しさのあまり更に小宇宙は増大し、ついに「訓練中は禁止」のはずの
大技を繰り出すまでに至った。
「ッ…スカーレットニードルッ!!!」
 しかし、最後の大技もあえなくシャカの目前で散った。
「カーン!!」
 シャカは、技の威力が己の防御壁に阻まれ消滅する様を確認してから、すい、と目を開けた。ミロに
向かって冷たく一言。
「必殺技は禁じ手ではなかったかね。遊びは終わりだ」
 真っ青な瞳がミロをまともに射抜いた。すわ、天舞宝輪か、とミロが身構える。
 だが、シャカはそれっきりもう闘う意志を無くしたようだった。ふ、とその場から陽炎のように姿を
消す。何処に行ったのか、と慌てるミロの身体もぐいっと見えない力に引っ張られて、賑やかに見物人
が集うその闘技場から二人の黄金は姿を消した。



 聖域の出入り口にほど近い岩地に、二人は出現した。無論シャカの力である。
 ぜいぜいとまだ息を乱すミロに比べ、シャカはまったく疲れた風を見せていない。どことなく一層儚
げに見えるほっそりした立ち姿が猛烈に憎らしくなり、ミロは精一杯ぎろりとシャカを睨み付けてやっ
た。まさかこんなに手玉にとられるなんて。
「…くそっ…おまえにまで負けるなんて…!」
「どの程度この私を見くびっていたのかは知らぬが、暴言だな」
 シャカの言葉に、ミロはぐっと詰まる。「まで」というのは確かに言い過ぎだ。
「…悪かったよ…」
 シャカは、ふいと空を見上げていた。謝罪を聞いていたのかいないのか、黙ってじっとその場に立ち
つくす。それがあんまり長い間だったので、ミロもあっけにとられて同じように蒼穹を見上げてみた。
何か見つけたかと思ったのだ。
「…?」
 だが、吸い込まれそうに青い空には白い雲以外なにひとつ見あたらなかった。相変わらず見事なまで
のスカイブルーに、いい加減目が痛くなってくる。
 でも…もうその青さに苛立ちは覚えなかった。シャカの言うように身体を動かして少しはスッキリし
たのだろうか。
「落ち着いたかね」
 シャカがそう言って不意に向き直ったので、ミロも視線を戻した。シャカはまだ目を開けたままで、
その双眸のやはり見事な青さにまたしても感心する。この蒼穹の、一番深い一番遠い紺青色にも劣らな
い、恐ろしいほど美しい青。
「おまえって…結構優しかったんだな…」
 ミロのなにげないひとことに、シャカは少し驚いたようだった。きょとん、とただでさえ大きな目が
全開になっている。やや置いて「ふん」と答える。
「……心底有り難いと思うなら額を擦りつけ拝むがよかろう。同情と思われるのは迷惑なので言ってお
くが、私は弱者に対する慈悲の心は持ち合わせておらぬ」
 しゃらり、と返す言葉はまったく呆れかえるほど傲然たるものだが、さすがにもうミロはその台詞を
額面通りには受け取らなかった。
「同情とは言っていない。ていうか要らん」
 要するに、この奇天烈な性格の乙女座は言葉の使い方がおかしいのだ。
「弱者に対する慈悲でもない。素直に礼も受け取れないのか、シャカ」
「キミがいつ礼をいったね」
「今…ああ言ってないか、誉めてやったんだ」
 そこまで言って、このシャカに正面から礼を言っても今のように混ぜ返されるばかりだと気がつき、
やめる。その代わり、この頃ずっと思っていたことを吐き出すことにした。
「…シャカ」
 シャカは、黙ってミロの言葉を待ってくれた。ミロはゆっくり言葉を探しながら続けた。
「何年も何年も、俺は…俺ばかりがこのクソむかつく聖域に閉じこめられてるのかと思ってた」
 今よりまだずっと幼い頃はそれでも良かった。もう殆どおぼろげにしか覚えていないが、生まれた島
での生活は酷く苦しかったから。
 超常の力は物心つく前から既に持ち、それを持て余しているような状態だった。多分目の前に居るこ
の乙女座ほどではないにせよ(コイツはとんでもない幼児だったらしい、さもあらん)、当時はそこそ
こ騒ぎを起こし、迷惑がられる厄介な幼児だったろうと自分でも思う。
 アテネが割合近かったおかげで、すぐに聖闘士としての資質を見込まれ、拾い上げられた。聖域では
ちょうど黄金十二宮の面子をやっきになって探している最中だった。思えばそれも生まれた星の宿命と
いうヤツなのかもしれない。ともかくミロは蠍座の聖衣に選ばれた。ミロにとっては、聖衣も宿命とや
らも決して重いものではなく、むしろ自由の翼のように感じていた。
 …けれど…。
「誰もキミを閉じこめたりはしていない」
「うん。判ってる。…判った」
「ならば良い。女神も喜ぼう」
 女神も?とミロが言うとシャカは十二宮の方角をちらとみやった。
「未だ眠っておられて影を見ることさえ叶わぬ御方だが…きっとこの地上の全てを加護していらっしゃ
る。一番傍近くに仕えるべき我ら黄金も健在でなければならぬ」
「そうか、…そうだな。ただでさえ今なんだか少ないしな…」
 裏切り者となってしまった射手座は多分もう死んでしまっているが、天秤座や牡羊座は一応まだ生き
ている。双子座だって行方知れずというが見つかる可能性がない訳ではない。きたるべき聖戦のために
用意された十二人の守護者は、女神が代替わりするまで同じく代替わりがないというから現世には大変
貴重なメンバーだ。…確かにこれ以上減ってはならない。
 …不思議な縁だ、とミロはつくづく思い知って同僚をまたまじまじと見つめた。
「なんだね、人の顔をさっきからじろじろと」
 さすがに気になったらしいシャカが文句を付けてきた。ミロは苦笑した。
「いや、俺らっておかしな集団だなあと思って」
「おかしいかね?」
「おかしいと思わないところがまずおかしい。…まあでもいいや。嫌いじゃないんだ。本当は」
 嫌いなのは退屈だけだ、と言い足してミロは歩き出した。十二宮へ続く道を目指して。
「帰ろう、俺たちの住処に」




 † † † † † † † † † † † † † † † † † † † † † †




 余談だが、その数日後、ミロは退屈凌ぎに獅子座のもとを訪れていた。
「久し振りだな、アイオリア」
「ミロ。元気そうじゃないか」
「おかげさまで」
 その日もうんざりするような晴れで、抜けるような蒼穹が頭上彼方を覆っている。だが、もう気鬱な
小宇宙はカケラも感じさせない様子でミロは笑った。
「退屈なんだ。時間あるなら手合わせしてくれ。どうも一人で鍛錬するのが最近効率悪い」
 トレーニング、と聞いてアイオリアが頷かない訳もなく。
「良い心がけだな。俺もお前が相手してくれるのは実にありがたい。正直白銀どもでは鍛錬にもならん
のだ」
「そうだろうとも」
 気の早い獅子座は即座に蠍座を伴って闘技場に降りた。その長い石段を二人並んで下りる際、ミロは
ついうっかり、先日シャカと対戦したことを零していた。
「シャカと??」
 しまった。このままだとこてんぱんにのされたことまで話してしまいそうだ。しかしもう止められも
しない。アイオリアは興味津々の瞳で問いかけてくる。
「あ…ああ…ビックリだろ。あいつが跳んだりはねたりするとこなんて俺初めて見たぞ」
「目は開けてたか?」
「…イヤ、閉じたままだ。…あーくそっ、言ってしまった!」
 ミロはおおげさに舌打ちした。実は今でもこっそり、あの細腕のシャカに負けたことをどうしても!
認めたくなかったりする。
「あの女みたいな細っこい見かけが詐欺なんだ! 猛烈に速かった!」
 ところがアイオリアは、ミロの吐き捨てるような台詞にも驚かず、それどころか自分も痛いところを
突かれたような面もちになった。
「…そうなのだ。アイツは恐ろしく速い。悔しいが…このアイオリアにも、ヤツの動きを容易には止め
られん」
「───ッ…そうなのか!?」
 ミロはびっくりしてその場に立ち止まった。アイオリアは苦虫をかみつぶしたみたいな表情になって
いた。そうか、対戦したことが…あるのか。
「アイツは…シャカはどうも事前に相手の動きを予測している節がある。どれほどこちらが素早く動い
たつもりでも易々とかわしてくれる。それもまるで蝶みたいに優美に」
「そうだ! そうだった!」
「が、弱点が無いわけでもない。ミロも判ったろう?」
 弱点?? そんなものがあったか? ミロは神妙な顔でアイオリアの次の言葉を待った。
「アイツには持久力がまるでない。耐久戦に持ち込んでしまえばいずれ動きは止まる。一旦捕まえてし
まえばこっちのものだ。もっとも捕まえられたことは過去に一度しかないし、万一実戦でならヤツには
大技がいくつもあるからな…あくまでトレーニングの範囲だ」
「へえ…」
 なるほど、自分だけが負けたのではないと判れば少しは気も楽だ。ミロはほっとため息。
「それに、アイツの攻撃はやたらに軽い。多少はふっとばされるが、幾度食らっても大したダメージは
ない。が、俺の牙は一撃必殺なのでな」
「…大技は禁止じゃないのか」
「ライトニングボルトなぞ撃たぬ。拳は十分に手加減したさ」
 ということは当てたことがあるんだな。ミロは軽く肩を竦めた。
「で、勝ったのか負けたのか」
「一度だけ、攻撃を当てた。あとはことごとくヤツの勝ち逃げだ。ったく面倒になるとすぐその場から
消え失せてしまうのだからこらえ性のない…」
「ちなみにその一撃必殺でシャカは負けを認めたのか」
 アイオリアは、ちょっとまずった、という顔になった。
「…認めるも何も卒倒して3日ほど目を覚まさなかったのでな…」
 どれほど手加減したというのだ獅子座。ミロは呆れてじろっと見やる。
「…判った、もういい。要するにシャカは規格外だ。そういうことにする。…いずれ雪辱戦をするにせ
よ、対策を練る」
「…ははん、初回だからこてんぱんにされたろうミロ」
 アイオリアは低く笑った。覚えのある経験なのだろう。案の定図星を指されてミロは激怒し、悔しさ
の余り勢い良く石段を駆けだした。
「くそっ早く来い! 今日こそお前をのしてやる!」
「それはこっちの台詞だ」



 豪奢な金髪が眩しい陽光に照らされ、色味のない十二宮の石段を鮮やかに彩った。












偽ミロと偽シャカ…お互いまだ子供とゆーことで…