絶望の壁





                                             
 血が、流れる。
 身体中が引き裂かれる激痛に、シャカは生身とはなんと不便なシロモノだろうとむしろ苛立ち
を先に感じた。捨ててやれるものなら捨てたかった。ヒトがヒトである限り、八識を発現しても
冥界に持ち込まざるを得なかった、重たく鬱陶しいこの肉を。



「…アテナ、お待ちしておりました」
 乙女座シャカは、冥界の入り口と呼ばれる地獄門の前で静かに膝をつき、ふわりと柔らかな光
に包まれて降臨する現代の女神を迎えた。女神沙織はシャカの姿を見て微かに笑む。
 逢って最初の言葉は何が相応しいかと数秒ほど逡巡していたようだが、沙織は結局当たり障り
のない台詞で応えた。
「シャカ…待たせましたね…すみません」
「いいえ、さほどは」
 シャカはにこりともせず返して、それからまじまじと女神をみつめた。普段目を閉じている筈
の乙女座がみつめてくるなど珍しく、沙織は柄にもなく少しどきまぎしながら「何か?」と問う
てみる。シャカは軽く首を振った。
「慣れぬ冥界でどこかお身体にご不調でもあったら、と思いましたが大丈夫のようですね。…さ
すがは女神」
 沙織はその言葉に、更に破顔した。
「死んでまでも身体の心配をしてくれるのですね。ありがとう。おかげさまで地上に居るときと
何の代わりもないわ」
 貴方は大丈夫なの?と尋ね返してくる女神に、シャカは「何の問題も」とさらり答えて、不意
に視線を泳がせた。邪悪な気配を感じたようだった。
「女神、ここは入り口なので目立ちます。ひとまず門を潜って少し中を探索致しましょう」
「そう、そうね。貴方に任せます」
 シャカは、女神に行く先を指し示した。沙織は行く手に聳える巨大な門を見上げる。その壁面
に書かれる文字が彼女の注意を引いた。
 この門を潜る者、一切の希望を捨てよ。
「…シャカ」
 沙織は一旦立ち止まって乙女座の黄金聖闘士を呼び止めた。
「はい」
「最初に言っておきます。どんなことがあっても最後まで希望は捨てないでください」
 沙織の目は真剣だった。言っている言葉も良く判った。そしてシャカにとって女神の言葉はそ
れそのものが絶対的な命令だった。…だが、しかし。
「肝に、命じます」



 門を潜って少し行くと、巨大な河が行く手を遮った。現世と冥界を分けるというアケローン河
だ。この河の遙か上流、レーテ河の更に彼方に楽園「エリシオン」があるという。
 岸辺で悲嘆にくれている亡者たちには一瞥もくれず、シャカは向こう岸が暗闇に霞んで見えな
いほど広大な河をざっと見渡した。
「確かこの河には渡し守が居る筈です。案内させましょう」
 シャカが女神に言うと、沙織は驚いたことに「いいえ」と答えた。
「舟が無くても渡れます。自力でゆきましょう」
「しかしこの河の水は…」
 泳ぐことも浮くことも不可能ではないかと、と言いかけたシャカは、そこで黙った。沙織は迷
いなく水際に向かって歩き出し、水面の上に立ってみせたのである。
 シャカは密かに眉をひそめた。なるほど、これが神と、神に最も近い人間との差、か。
「ここは敵地です。私たちの姿をハーデス率いる冥闘士たちに見られて無駄な闘いになるのは避
けたいのです」
 シャカは珍しく一旦開きかけた口を閉じ、しばらく黙った。なんと返していいやらさすがに戸
惑ったのだ。ややおいて、なるべく丁寧に断りを入れる。
「女神のご配慮はごもっともですが、その方法ですとこのシャカは女神を御護りできません」
 本当は、口に出すことさえ苦痛だった。己の力の無さを、…例えそれが神が相手だったとして
もあからさまに白状するのはシャカにとっては屈辱である。しかしそれを補ってもあまりあるほ
ど、シャカは女神に付き従う使命に忠実だった。言わねばなるまい。
「…私のこの身はヒトの領域、地上でならいざしらず、このアケローン河の水をはじくことはさ
すがに叶いませぬ」
 沙織は、しかしシャカの言葉など初めから承知のようだった。いや、そもそもシャカでなくて
も通常は人間が水の上を歩ける筈がない。地上でなら歩けると断言するシャカの方がおかしいの
だ。女神は頷いてみせた。
「この河の水は地上と違うのね? でも、それなら私の歩いた後をついてきて下さい。普通にな
ら歩けるのでしょう? シャカ」
「ガンガー(ガンジス河)でなら…しかし」
 女神はそれ以上は言わずさっさと歩き出してしまった。やむを得まい、とシャカも足を踏み出
す。一瞬だけ引っ張られるような力を足下に感じたが、特に何もなくシャカも水面に立った。女
神の加護によって自分が浮いていられる、という実感にシャカは何故か酷い悪寒を覚えた。



 天には星も月もない。
 凍えるような闇夜に足下から伝わってくる水の冷たさが一層寒かった。その感覚が、地上で生
きていたころと何の変わりもなくて、返ってそれが不気味なほどだった。
「…いつから」
 沙織は、突然振り向くでもなくそのまましゃべり出した。シャカは少し距離を詰めた。
「いつから、冥界に来ることを考えていましたか? シャカ」
 シャカは間を置かず答える。
「聖戦が始まると判ったときから。貴方がアテナであり、敵がハーデスであるならば、決戦は必
ず冥府だろうと思っていました」
 遙かな昔、神話の時代から続いてきたという神と神との闘い。
 つまり神に命じられ神に刃向かう聖戦だ。
「それは、いつ?」
「正式に乙女座の聖衣を授与されたときに、です」
 つまり、7歳になるかならないか、のときだ。沙織は顔色を曇らせた。
「十三年前から、貴方はこの闘いを知っていたというのですね」
「最終的に覚悟を決めたのは割と最近ですが、まあ大体予想はついていました」
 沙織がため息をつく。自分の存在が、どれほどの犠牲を強いているのか。ヒトとしての身なら
あまりに重い立場であろう。…しかし彼女はヒトではない、神なのだから。
「…私を恨んでくれてもいいのですよ、シャカ」
 女神が項垂れつつ呟いた言葉に、シャカは少しだけ笑みを零した。
「アテナは我ら黄金に対し罪悪感のような感情をお持ちだ。…しかしそれは不要です。何故なら
貴方は女神であり、我ら聖闘士は女神のためだけに存在するのだから」
「普通に人としての幸せを与えてやれないのは私の業です」
 沙織はため息を零す。が、シャカの答えは迷い無かった。
「ヒトとしての幸せがどんなものかは私には図りかねます、が、どのような道を辿っても所詮ヒ
トはヒト。その定めに準じるか、逆らうか、それは当人の意志でしょう」
「貴方は聖闘士であってよかったと言ってくれるの?」
 シャカの青い瞳が女神を映す。
 目の前に存るのはまぎれもなく神の化身。彼女は神でありながら、どこまでもヒトであろうと
する。そのありようが今まで地上と、そこに住まう人間を救ってきたのだ。
「でなければこんな面倒なところにまでご案内致しません。他の黄金たちも同じ思いの筈。私は
今の自分のあり方に一片の後悔もない。あるとすればただ…」
 シャカはそこまで言って不意に黙った。沙織は続きを促そうとしたが有無を言わさずシャカは
話題を切り替える。
「ただ、何?」
「どうでもいいことです。それよりも、ハーデスへの具体的な対策はお考えですか、女神」
 沙織は途中で途切れてしまった言葉の続きが気になって仕方なかったが、シャカの様子はそれ
以上の詮索を欠片ほども許さなかった。沙織はまたため息をついた。
「具体的も何も、なるべく話し合いで解決させたいとは思ってるけれど」
「…話し合い!?? 本気で?」
「そうよ、悪い?」
 今度はシャカがため息をつく番だった。そういえば闘いの女神と言われながらアテナは元来と
てつもない平和主義者だとか。しかし決戦覚悟で乗り込んできて言う台詞ではない気が。
「…あら、ねえシャカ。いつのまに目を開けているのね」
 沙織は唐突に言った。シャカはぱちりとまたたいた。今頃気が付いたのか。
「冥界でまで感覚を遮断する必要はないので」
「綺麗な目ね。…いつも開けていればいいのに。私好きだわ、貴方の目」
 シャカは、苦笑した。いつかどこかで聞いた気がする。…ああ。
「アイオリアも、そう言って私の目をなんとかこじ開けようとしたことがあります」
 沙織は「へえ」と嬉しげに返した。



 二人はアケローン河を渡り切った後も随分ほとりを彷徨った。ハーデスがエリシオンに居るだ
ろうと予想をつけた故である。エリシオンは河の上流の更にずっとずっと彼方にある。どうにか
河を辿ろうと苦心して、けれど幾度も方向を誤って同じところをぐるぐる迷った。迷っているう
ちに、ハーデス本人としか思えない強大な小宇宙を地獄の最下層で感じて、あわてて方向転換し
た。
 途中、相当な数の冥闘士に行く手を阻まれた。もう青銅たちが冥界にやってきて騒ぎを起こし
ているらしい。あんまり関わりたくないフェニックスの小宇宙も漏れ感じ、シャカは常になく不
愉快な面もちになってしまった。まあ、しかし心を乱すほどのことでもない。
 青銅だけでなく、数人黄金も来ているようだ。ムウやアイオリア、ミロたちの気配がまるで無
いのが気がかりだったが、彼等とて相応の覚悟で冥府に来ているのだろうから、そう易々とはや
られまい。今感じるのはサガの弟だとかいう双子座、それから天秤座の老師。どこかで合流でき
ればアテナの安全はもっと確実なものになるのだが…。
「なんで生身の人間がこんなとこほっつき歩ってんだ!?」
「うあっ…つうかこいつ、まさか女神本人じゃ…!!」
「じゃこっちは黄金聖闘士かよ!」
「ちょうどいい! ハーデス様へ女神の首を捧げるチャンスだぜ!!」
 鬱陶しい雑魚どもだ。シャカは冥闘士たちが立ちはだかるたびに髪の毛一筋も乱さず粉砕して
いった。女神は、シャカの護衛が絶対安全だと信じているのか、穏やかな表情のままだ。実際、
彼と、彼女の周りには完璧な防御壁が有り、それこそかすり傷ひとつとて女神につくことはなか
った。
 ジュデッカへ乗り込む寸前に、女神は心底感心したようにシャカに言った。
「最も神に近い、とは良く言ったものね、シャカ。本当に、とても強いのね」
 シャカは、それには苦く笑って済ませた。



 冥界の最下層コキュートスの、更に最深部ジュデッカ。
 そこに傲然と聳えるハーデス神殿、「嘆きの壁」と呼ばれる不可侵の巨壁を目の前にして、シャ
カはここまで来る間に吐くほど胸の内を一杯にしてきた嫌悪感を壮絶に感じ、本当に吐くかと思う
くらい真っ青になってくずおれた。
 …判っている、判っているとも。
 どれほど力を極めても、人間は人間以外の何者にもなれない。生まれたときから死ぬまで、どこ
までも同じモノであり続けるしかない。
 そして、神は居る。あらゆる存在の上に傲然とゆるぎなく。否定しようが目をふさごうが、それ
はどうしようもなくただ現実だ。
「女神…」
 シャカは、人気の無くなってしまった神殿の最奥で、幾度も幾度も壁を破壊しようと試みた。し
かし壁にはヒビひとつ入らず、限界まで小宇宙を高めて最大奥義を繰り返す内、シャカの肉体の方
が過負荷に耐えきれず傷つき始めた。
 自分の放った力がまともに自分にふりかかる。のみならず、己の膨大なエネルギーが身体の中か
ら身体を破壊する。それでも構わずシャカは繰り返した。見る間に足下は自身の血で染まった。
 …だが、絶望は依然として彼の前にあった。
「ッ…」
 鬱陶しい肉体だ。捨ててこられるものなら捨ててきたかった。シャカは嘆きの壁に力無くもたれ
た。掌を当て、肘までつき、己の額をごつ、とこすりつけるようにして。絶対なる境界の壁は、冷
たく、乾いていた。シャカは血を吐いた。
「女神…」
 自分は己の役目を果たしたのだろうか。…いや。
 女神に従い、女神を護り、そしてここまで彼女を連れてきた。ハーデスとの闘いの為に。
 だが敵とは言え神に拳を向ける暴挙をシャカは、多分聖闘士の中では一番良く理解していた。自
分では太刀打ちできないだろうことは初めから判りきっていた。だが、差し違えるつもりで全力を
出し、女神が相手を封印する隙くらいなら作ってやれるつもりだった。
 地上を巡って争い合う神たちは、みな制限のある肉体を持って出現してくる。そこだけが、神に
つけいる唯一のポイントだ。ポセイドンのときもそうだった。あの時は青銅たちに任せきりだった
が、今度は自分の番だから。そう思ってここまで来たのに。
「…女神…ッ…」
 シャカは生まれて初めて、と言っていいくらい悲痛に呻いた。
 女神は、ハーデスが青銅の一人であったアンドロメダの肉体を乗っ取ったことを憂いて、この自
分に一撃も許さなかった。彼女はアンドロメダも、そしてこの自分も殺させはしないと叫び、ハー
デスの槍を素手で受け止めハーデスの魂をいぶりだし、…そうして激突する二人の神は嘆きの壁の
向こうへと去ってしまったのだ。
 唯人(ただびと)でしかない、自分をこちら側に置きざりにして。
「神以外が通り抜けることを阻む…絶望の…壁…」
 何が、神に最も近い男か。
 …どれほどに近づいても、結局神と同等にはなれない。いや、なれる筈がない。
 なりたいとも思わなかったが、己の無力さだけが今はただ堪らなく苦しい。
「──瞬!! 大丈夫かよ!」
 遠くで元気そうな少年の声がする。ああペガサスか。やはりお前が来たのか。
 シャカは必死で壁から数歩退いて、その場にしゃがんだ。…また、青銅の餓鬼どもに役目を任せ
ることになるのか? いや、それならそれでも構うまい。お互い同じ聖闘士、女神のためだけに闘
い死ぬ戦士だ。
 …だが、どうやって絶望の壁を壊す? この絶対的な境界を、どうすれば。



「シャカ!!!」
 アンドロメダと、そして追いついてきたペガサスが血塗れのシャカに気が付いて、駆け寄ってき
た。シャカは二人の助け起こそうとする手を払って立ち上がる。
 嘆きの壁を、開くのが最後の義務だ。シャカはそう確信した。いや、例え開かなくてもこの青銅
たちを絶望に砕かせたくはない。砕けるのなら自分だけで構わない筈だ。
「…さがっていたまえ、ペガサス、アンドロメダ」



 また、血が滴った。シャカの足下は不吉な花が開いたかのように深紅に彩られていた。











こんなん書いていいんかっつーへんな話。G2様(@こがねどおり)のコメント↓に対し
何か書きたかったのだけど(使って良いとゆーご許可も頂いたのだけど)
むしろこれは純粋に天界編への怒り(?)になってしまった。しかも嘆きの壁の前。イタタ。
ごめんなさいすんません違うのこんなんじゃないのコレは違うの。やりなおすの。
てな訳でG2様への分はまた別に。(いらねえって)

オエビより「 神に近いといっても神と同等だとか人ではないとかそんな事は決してなく、それ
どころか己が神を目の前にしてどの程度かをいやと言うほどに身に感じていると言うのに」
以下略