降りしきる








 記憶にある、一番古い光景は雨だ。
 生ぬるい大粒の水滴が凶器のようにそこら中を打ち据えていく様を、シャカは為す術もなくただぼんやりと見続けるしかなかった。まだ生まれて数週間、己が何であるかもまったく判らないまま に、木の下にモノのようにうち捨てられて。
 何が起こっているのか、まるで判らない。何かに対する明確な感情さえもない。
 ただ、青い瞳に雨の情景だけを映す。まだ良く見えぬその目で、けれどそれだけが出来る唯一のことだったので。




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 しのつく雨が屋根を叩く音が鳴り出した。またにわか雨だろう。
「シャカ、シャカ!」
 続いて、古びた僧院の入口から誰かが呼ぶ声。珍しい。こんな異国の山奥にまで「あれ」が訪ねてくるとは。
「おーい、シャカ! 入ってもいいか?」
 呼び声の主は、とうに判りきっていた。シャカは瞑想を打ち切ってひとつため息。大声を張り上げるのは面倒なのでやんわりと小宇宙だけを相手に伝える。相手はすぐに了解したらしい。
「入るぞ!」
 やがて、眩しい黄金色の小宇宙を纏って見知った相手がシャカのしゃがむその場所までやってきた。実に逢うのが一ヶ月ぶりくらいになる、十二宮での隣人。獅子座のアイオリアである。
「…久し振りだな、シャカ。思ったよりは元気そうで良かった」
 アイオリアは、ちょっと濡れて茶色味を増した濃い黄金色の髪をぱしぱしと手で払い、次いで獣みたいにぶるっと振った。水滴が辺りに粉のように舞う。
「すぐそこまで来ていたのだが、いきなり降り出した。けっこう寒いな、ここ」
「迎えに、来たのかね? わざわざ?」
 シャカが特に感慨もなく獅子にそう問えば、彼は当たり前だと睨んで返す。
「かっきり一月したら必ず戻ると言い置いたくせに、今回は7日過ぎても戻らん。お前のことだから飯を食い損ねてひっくり返っているか、でなければ日数計算を間違えているに違いないと思ってな。教えてやりに来た」
 いいながらも、獅子は時折きょろきょろと辺りを窺ってみたり。どうやら初めて来るこの場所が珍しいらしい。
「聖域常駐の君がギリシアを離れるとは、残される方も気負うだろう」
「たまにはいいのさ。アルデバランが4日前から戻ってきている。ああ、シュラたちも居たな。それに獅子の聖衣を置いてあるから、何かあったら報せてくれるとも」
 おまえの乙女座は埃を被っているんじゃないのか? そう言うと、シャカはさすがに少しばつの悪い顔をした。この身は決して境涯に辿り着く為のものではなく、現世ではあくまでも女神の聖闘士たるべきなのだ。
 …となると、異教の神に捧げられた私のカルマ(業)は初めからサンサーラ(輪廻)を巡るよう定められているということになるか…?
「…そういや、おまえ、普段何を食っている? まさかずっと断食とは言わんだろうな」
 アイオリアの声にはたとシャカは振り向く。長いこと瞑想に浸っていたのでまだ意識が完全にこちら側に向いていないようだ。軽く頭を振ってみたりして。
「近くの村の者が時折野菜や粥を置いていくので不自由はしない。なければ托鉢に行く」
「托鉢?」
「仏の教えを遊説し、代わりに食糧などを捧げてもらうことだ」
「…へえ…教えを説きに行ったりするのか…お前がねえ…」
「アイオリア。私はこちらに修行に来ているのだ。聖域を離れて他にどんな理由があるというのだね。無礼な」
 シャカは、何だか異様に感心した風のアイオリアにちょっと顔をしかめてみせた。アイオリアはあわてて訂正を入れてくる。
「あー。いや、莫迦にしたのではないぞ。ただ、俺達の修行とは随分違うから…、て、お前また細くなったな」
 アイオリアは、ずっと座禅の格好でいるシャカのすぐ傍にしゃがみこんだ。ぐい、と遠慮なくシャカの腕をつかみ、その太さを確かめる。次いで肩を触り、手の甲で頬も撫でて。
「聖闘士は身体作りも義務だと言った筈だ。内なる小宇宙を磨くのも大切だろうが、少しは外見もどうにかしろ。せっかく綺麗な髪もうす汚れて」
「身体作りと髪は関係あるのかね」
「俺がイヤなんだ」
 言いながら、アイオリアはそのままシャカを抱きしめた。汚いと言ったそばからその髪を撫でられてシャカは少し慌てる。自分が汚いのは大して気にもしないがアイオリアがそのせいで汚れるのは釈然としない。
「…こら、汚いというのならやめたまえ」
「なんだ、別に酷い匂いはしないな。お前もともと体臭無いし。風呂入った?」
「裏の河で毎朝沐浴している。と……アイオリア、神聖なる堂で何を…」
「何って、判ってるだろう」
 シャカはますます慌てた。が、所詮欲に飢えた獅子に勝てる筈もなく、その場に押し倒されて懇願され、なし崩しになる。どうもこの獅子には敵わないのだ、本当に。
「お前の居ない一月、気が狂うかと思った」
「修行が足りぬ」
「お前が約束した日までに戻って来ないから悪いのだ」
「…」
 ぼんやり、とお堂の天井を見上げる。まだ雨音が響いている。
 抱きしめられるその体温が酷く心地よくて、悟りの境地とはまるで正反対だな、と自嘲しつつもなんとなくそれでもいいか、と身を預けた。
 ふりしきる雨の音が、意識を遠く運んでいった。




 インド国境から僅か数キロの、ネパールの小さな農村ルンビニー。
 その外れに白い瀟洒な堂があり、巨大な無憂樹がある。
 世界中の仏教徒に聖なる地と崇められているその場所は、遙かな昔「釈迦尊」が生まれ出たとされる。その遺跡の片隅に一人の小さな乳児が捨てられているのを発見したのは、旅の僧侶だった。
「…なんと…」
 最初は一頭の大きな犬がいて、よく居る野良犬かと視線を逸らしたのだ。が、犬は僧侶を見た途端すっくと立ち上がり、モノ言いたげな目で僧侶と自分の足下とを交互に見つめた後にするりと影みたいに去ってしまった。その後に残されていた白い固まりが動いたように見えて、僧侶は木の下まで歩いていった。赤子だと気が付いたのはもっと近づいてからだった。
 男は、まず赤子に傷ひとつついていないことに感心した。あの野良犬は乳児にキバを立てなかったらしい。…というか、まさか、護っていたのか。いや、そんな莫迦な。
「まったく惨いことを…こんな処で捨て子とは」
 とにかく、放置する訳にはいかない。僧侶は白いおくるみに包まれた小さなその乳児をそうっと抱き上げた。赤子は泣きもせず笑いもせず、ひたと真っ青な瞳で僧侶を見返してきた。
 …清冽な青。
「この地方の生まれじゃないな…というより欧米人じゃないか。ハーフかな?」
 真っ白な抜けるような肌、青い瞳。それからなにより色素の薄い白金髪。大分泥と雨とで汚れてはいるが、一晩雨に打たれたにしては暖かかった。
「…わざわざ捨てに来たとは不埒な…よりにもよって釈尊のお生まれになった尊いこの地で」
 貧しい農村だが、いくら口減らしとはいえ地元で目立つようなこんな捨て方はすまい。一応ここは観光地だ。多分、遠方から何らかの事情でこっそり夜中に捨てに来たのだろう。
 ふと、まじまじと赤子に見入る。美しい子供だ、と一目で判る。
 …それに泣き声ひとつ上げない辺りがなんとなく不気味だ。
「民話では、人里離れた場所に捨てられている赤子といえば化け物の化身か神様のどちらかだな。化け物なら泣き声で人を呼ぶというが…お前は泣かないな。神の方か?」
 冗談まじりに、話しかけてみたりもして。
「よもや仏陀の生まれ変わり、なぞとは言ってくれるなよ。釈尊は既に輪廻転生の苦しみから解脱なされ天地に還られた御方だ。…もっとも、本当に生まれ変わって再び導き手になって頂けるというのなら、業を承知で輪廻の路に引き戻したい衆生が山と居るだろうが」
 抱きしめた小さな身体から感じる体温に、どこかほっとする。巨大な無憂樹の木が見下ろすようにそこに立っている。一瞬、本当にこの子が釈迦の生まれ変わりかもしれない、などと思う。
 …世迷い言とは判っているが。
「釈尊は生まれてすぐに、こう言うんだ。

 アッゴ アハム アスミ ローカッサ(私はこの世の首位にある)
 セト アハム ローカッサ(私はこの世で最も優れている)
 ジェト アハム ローカッサ(私はこの世で最年長である)
 アヤム アンティマ ジャーティ、ナハティ ダニ プナバーヴォ
 (これが最後の生存であり、以後再びこの世に生を受けることはない)

いわゆる「天上天下唯我独尊」というヤツだ」
 この天上天下唯我独尊については、今では色々な説がある。生まれた瞬間にそんなことを言える訳がない、後から付け加えられたおとぎ話だ、とか(その説には大いに共感する)、そもそもその意味は単なる傲慢ではなく悟りを得た勝利の宣言なのだ、とか。日本の様々な宗派に分かれてしまった仏教だと、お坊さまの有り難い説法にこの話が出るとき必ず「唯我独尊という本当の意味は、人間一人一人を尊べということだ」と上手い具合に解釈されるらしい(別に解釈などはひとそれぞれだから文句を言う筋合いでもない)。
 しかし、僧侶は思うのだ。釈迦は多分、事実をありのままに言ったにすぎないのでは、と。
 もし生まれたばかりの赤子が本当に口が利けて、人間には計り知れない天啓を持ってやってきたとして、自分の存在を謳ったなら。
 天の上にも下にも今己より優れたモノはなく、二度と生まれ変わることもない、と呟いてもいいのではないか。事実がそうだったのだから。
「私はまだまだ悟りが足りないな…」
 さて、と僧侶は辺りを見回す。辺りに人影はまだない。早朝熱心にここを訪れたのは今日は自分ひとりだったらしい。となると不審な人物がうろついていたとしても目撃者も居るまい。
 しかるべき施設に赤子を預けて、また再び旅に出よう。僧侶はそう決めて、手近な民家へ事情を話すべく赤子を抱いたまま歩き出した。




 堂の片隅に、古びた布を何枚か広げてその上に横になっていた二人のうち、獅子の方が先にもぞりと起き出した。半裸のまま、横向きに体勢を変えて片手で頬杖をつくような格好になり、粗末な堂の中を改めてみやる。
「…ここはインドのどの辺だ?」
 シャカも、布切れの間からするりと裸身を覗かせた。同じように体勢を変えて、頬杖はつかないまま床に片頬をぺたりとくっつける。
「知らずに来たのかね、呆れたものだ」
「お前の小宇宙を辿ってきたのだ、地図と首っ引きで来た訳ではない」
 シャカはくすりとひとつ軽い笑みを落とした。
「…ここはルンビニーの近く。ネパールだ。インドではない」
「ネパール? どうりで少しうすら寒いと思った」
「ヒマラヤの麓だからな」
 へえ、と言ってアイオリアはシャカの裸体を引き寄せる。
「もっと、うだるような暑さかと覚悟を決めてきたが、割りに過ごしやすいな」
 気持ちイイ、とアイオリアがすりつくのでシャカも無下にはせず。…というより、久々の彼の体温が自分も気持ち良かったので。
「で、そろそろ聖域に戻らないか? 一月も過ごしたなら少しは気が済んだろう」
「…そうだな…」
 ふと、雨音が遠ざかっていることに気が付き、天井を見る。こんな風に生まれ故郷のすぐ傍で雨音を聞くと、古い、ふるい記憶が甦ってくるのが不思議と心地よい。
 そうだ。私は見ていた。
 見知らぬ僧侶が捨てられていた私を拾い、この近くの村に預けてくれたことを。
 まだ知識も感情も何もない空白の脳裏に淡々と焼き付けられた記憶の刻印。「それ」を理解し納得するまでには数年の歳月を要したが。最初に見た雨の景色と、拾い上げられた温かさだけは決して、忘れはすまい。
「帰り際、雨があがっていたら少し辺りを歩いてみていいか?」
「…私に観光案内をせよ、と?」
「いいじゃないか、たまには」
 シャカは、またくすりと笑った。しょうがない、といわんばかりの表情で。
「…なら、釈迦仏の生誕の地にでも案内するかね? どうせすぐ近くだ…」




 現在、ルンビニーの遺跡はだだっぴろい公園として整備されている。その入口まで二人がてくてくと歩き出した頃には、さんざん降っていた雨はすっかりあがり、ぬかるみの路で水たまりが眩しい光を放っていた。
 雨の次は陽射しか。シャカはため息のように呟いて天を仰いだ。
 そのふりしきるひかり…。
「ここは、仏陀の生誕された地とされる。あの白いのがマーヤー堂。裏手に池があって、そこでマーヤー夫人は沐浴をされたらしい」
「へえ…」
 雨上がりの遺跡は、訪ねる人も少ない。熱心なチベット仏教徒がときおり参拝に来る他は観光客もまばらで、おかげで周りに気を遣うこともなくゆっくり話すことができた。
「私は、あの樹の下に捨てられていた」
 アイオリアは、とっさにシャカの顔を振り返った。スゴイ勢いで。
 選ばれて各地から聖域に来た聖闘士候補の子供たちは、当人が積極的に語らぬ限り絶対に過去を問い質してはならないとされている。年端のいかない子供たちへの、たったひとつのささやかな配慮なのだ。
(うわ、俺、聞いていいのか…聞きたいけど…)
「だから肉親は知らぬ。どうでもいいことだが」
「…そう…か…」
 アイオリアが悲痛な顔をしているのに気付いたか、シャカは淡く微笑した。
「憂うことはない。珍しいことでもないだろう」
 アイオリアが尚も難しい表情で固まっているのでシャカは更に笑って(そういえば、今日はなんだか良く笑ってくれる)、もう少し歩くかね、それともそろそろ人里を離れて聖域に移動するかね?と聞いてきた。アイオリアは曖昧にううんと返事をする。正直、どちらでも良かったのだ。
「そうだ、祈っていっていいか?」
 アイオリアは考えた挙げ句にようやく言った。祈る?と眉を顰めて見返すシャカに、アイオリアはもごもごと告げる。
「感謝の祈り。俺はここでは異教徒だが、感謝のそれくらいバチは当たらんだろ」
「何の感謝をだね」
「莫迦、お前が生まれたことに感謝するんだ!」
「…は?」
 ますます素っ頓狂な顔になったシャカに、アイオリアは自分でも気障ったらしい言い方をしたと自覚したのか頬を紅潮させつつ、必死で言い訳する。
「お、お前今年自分の誕生日すっぽかしたろう! せっかくアルデバランたちも珍しく揃っていたのに、ちっとも帰ってこないから!」
 ああ。そういえば2日ほど前が誕生日だったか。どうでもいいから忘れていたが。
「いや…ああ…」
 道理でせっかちに迎えにくると思った。そうか…誕生日か。思い返せばこの地ルンビニーを選んで戻ってきたのも、生誕がどうとか思い出したせいだった。
「しかし、アイオリア」
「なんだ!」
「私は別にあの樹の股から生まれた訳でなし、あの樹に生誕の感謝を捧げられても困ると思うのだが…」
 言われてみれば正論だ。アイオリアは更に混乱しきって「それでもいいんだ!」と怒鳴り返すのが精一杯だった。
「お前が無事で、こうして居てくれて良かったと、そういう気持ちを何故素直に受け取れんの だ貴様は! 屁理屈ばかり上手くなって!」
「…君も十分屁理屈だらけだが」
「ええい黙れ! …いいから少し、考える時間をよこせ! ああ、なんだかしんみりした気分がどこかに行ってしまったではないか!」
 それも正しく君のせいだ、とはさすがのシャカも言わないでおいた。
 代わりに、まるで雨のように激しく降りしきる光を仰ぎ、微かに閉じていた目を開ける。
(雨の後にやってきた、優しい気配…)
 犬が、どこからともなくやってきて一晩中温めてくれていた。雨があがるとそれは美しい夏の終わりの青空で、降りしきる陽射しをシャカはずっと見ていた。
 たたきつけられるぬるい滴の替わりの、眩しい光を。

<───釈迦は生まれてすぐにこう、言うんだ>

「Aggo'ham asmi lokassa…」
 シャカは懐かしくなってふと、呟いた。アイオリアが途端に振り向く。
「それ、なんだ?」
「天上天下唯我独尊、だ」
 アッゴアハムアスミローカッサ、セトアハムローカッサ、ジェトアハムローカッサ、
 アヤムアンティマジャーティ、ナハティダニプナバーヴォ…
<あのとき、私がその境地を知っていれば、貴方の問いに私は喜んで応えたでしょう…>
 拾ってくれたあの時の僧は、もう居ない。この世の何処にも。
 そして、自分は釈迦ではなく乙女座のシャカとして、聖域に戻る。女神を敬う気持ちに、今はもう欠片も躊躇いはないけれど。…けれど。
「綺麗な空だなあ、ここも!」
 アイオリアは嬉しそうに、シャカに倣って空を見上げた。シャカは微かに笑んだ。
 雨上がりのこんな日は、なんだか色々懐かしくていけない。
「風が湿っている。明日辺りもう一雨くるな。…もう戻るのだろう?」
「ああ。お前はもういいのか?」
「構わぬ」
 シャカの応えにアイオリアは力強く頷いて、抱き寄せた。幸い人気はまったく無く、シャカの力で二人は一息にギリシアまで跳んだ。
 薄い金色の光が、やがて消え。
 降りしきる午後の眩しい陽射しの中、無憂樹だけが「あのとき」と変わらずにゆるりと風に吹かれていた。


                                     2005/10/10




気持ち的にどうしてもシャカ誕をクリアしておきたかったので超今更だけど。
ちなみにルンビニとか行ったことないんで超適当です。鵜呑みにしないように(しないっつの)。
しかしこんな調子っぱずれな話はうぷしていいんだろうか…ああーもう後がないー!