子供時代



 穏やかすぎて、落ち着かなかった。
 周りにあるもの全てが、幻みたいに優しすぎて。温かすぎて。
 ここはまるで夢見ていた楽土のようだ。
(こんな…世界も…常世ではなく…存在する…)
 シャカは呻くように思い、そして自分の無力さにまた、涙した。



「兄さーん、シャカがまた飯残してどっか行っちゃった!!」
 アイオロスは背後から弾け飛んできた大声に、小さくため息を零した。これで一体何度目
になるだろう。
 せめて自分自身がもう少し大人であったら。今まで一度もそんな風に悔やんだことはなか
ったのに、シャカを預かるようになってからアイオロスは自分の頼りなさをいやというほど
思い知ることになってしまった。
「オレ、洗濯モノとりこんでたんだ。そしたらまたいなくなっちゃった!」
「…わかった、俺が気配を探ってみるから、お前は家に戻っていろ」
「でも…」
「すぐ戻る、大丈夫。すぐ見つける」
 シャカと同じ年齢である筈の実弟は、自分が目を離してしまったことを悔やんでか、幼い
顔にこれ以上ないくらいの後悔の色を浮かべている。その、歳相応の表情にふとシャカの面
影を重ねて、また苦い思いが甦ってきた。
 自分だってたかだか十代のガキだというのに。目の前のことで精一杯で、いまだ修行中の
未熟な自分が、あの、魂を何処かに置き忘れてきたような可哀想な子をどんな風に育ててや
れるというのか?
(未熟なことは承知の上だ。それでも歩み寄らねば成し遂げられぬ)
 アイオロスは弟を無理に帰宅させ、シャカの小宇宙を辿った。微かな甘い芳香にも似た、
柔らかな思考の波。…力の粒、その滴。もう大分馴染んだ養い子の気配。
 あの子は本当に同じ人間とは思えない。それほどに高潔で…それ故空虚な魂を持つ。
「シャカ」
 小さな布の塊が、呼び声にぴくりと背中を震わせた。
 シャカは聖域にほど近い、人気の失せた岬の先に居た。



「なにか、気になることがあったのか? シャカ」
 アイオロスはいきなり怒ったりはせず、穏やかにまずそう言ってみた。シャカは軽く首を
振って答える。最初の頃よりは随分マシに応答するようになった。
「風が、鳴って。もっと良く、聞こうと思って」
「聞こえたのか?」
「聞こえる…けど、答えではなかった。問いかけのままだった」
「風はお前になんと問いかける?」
「楽土は何処に在るか、と」
 …楽土。楽園。
 この世ではない何処かに在る筈の約束の地。どれほど理知に富んだ者でも、その問いには
容易く答えられまい。誰もその地へ生きたまま辿り着いた試しがないからだ。
「難しいな。即答はできぬだろうよ」
 アイオロスはそれだけ言って苦笑してみせた。
 考え方によってはどんな場所も楽土だ。そう思える人間でいたい。己にとって「だけ」な
らば割合簡単なのに。ふと、そう考えながら。
「…?」
 シャカがその自分の思考を漏れ聞いたかのように、顔を上げる。が、シャカがそれ以上何
かを言う前に、アイオロスが制した。
「…だがその前に。シャカ。出かける時は、行き先と、帰る時間を告げてから。そう教えた
だろう?」
 アイオロスの口調が少し厳しいものとなる。
「リアが、お前を見失ったと言ってしょげていた。風の問いかけは、食事も中断させるほど
お前をせかしたのか?」
 シャカは首を横に振った。ただ考えもせず飛び出していた自分にようやく気付く。
「戻りなさい。俺は送ってはいかない。自分で戻って、食事の続きを」
 こくり、と頷きシャカはその場から消える。舌を巻くほど見事な瞬間移動で、まったくも
ってあの子に黄金聖闘士として何か教える必要があるのか、という力であった。



 シャカが戻ってくると、アイオリアが子犬のように駆けてきて出迎えた。
「お帰り! 飯も食わないで居なくなっちゃうからどっか腹でも痛いのかと思った。大丈夫
なのか?」
 シャカの手を強引に取って握る。初めの数日こそ照れが入ったアイオリアだが、天性の朗
らかさ、おおらかさであっという間に彼を自分の「身内」と見なした。ほとんど口も聞かず
大抵のことになすがまま、のシャカを、持てる限りの慈愛の精神で庇う。それは故郷インド
ではまったく有り得なかった扱われ方で、シャカは内心酷く狼狽した。
「そうだ。兄さんに会ったか? 探しに行ってくれたんだ」
 こくり、と頷く。
「…食事の続きを、と言われた」
「そうだよ、飯、食おうよ。オレ一緒に食おーと思って、待ってた」
 一緒に、というところでシャカがふっと目を開ける。驚いたらしい。
「何故?」
「何故って、なんだよ、一人より二人の方がいいじゃんか。おまえ、やなの?」
 シャカはあわてて首を横に振った。自分でも呆れるくらいあわてていて、どうしてか、こ
の相手に対しては自分は弱い、と確信してしまった。
 あまりの純朴さが、シャカの心に激しい波紋を生み出していく。
「や…じゃない…ただびっくり…して」
 故郷では誰も自分に触れず、見ず、存在することさえ無視されてきた。超常の力を持ち、
声なき声に導かれてきたからこそどうにかかろうじて生き延びることができた。そもそも自
分が人間だと気が付いたのさえ最近なのである。
 なのに、今はこうして自分の手に触れる相手がいる。
 …故郷はあまりにも遠くて、とおくて。
「──リア」
 おそらくは、ここに来て初めて「彼」の名前を呼び、「なに?」とまっすぐな視線が返る
のを見た。自分の無力さを、痛いくらいに感じた。
 あのガンガーのほとりで、明けても暮れても瞑想ばかりしていた頃。
 いくつもの死体が「人間」と見なされず汚れた存在として放置され流されていく脇で、巡
礼者たちが神への祈りを捧げ沐浴する。その神聖で哀しい光景が日常の…世界。
 この、今の世界。
「リア」
「だから、なに」
 まっすぐな瞳。真っ青な空と乾いた風、乾いた大地。
 もしかしたら自分は楽土に辿り着いたんじゃないかと、思う。そう思うこと自体が故郷へ
の裏切りかもしれないと、そんな痛みも交えながら。(だって還りたいのはあのガンガーな
のだから)そして、ただ無力さに涙がこぼれる。
「…わっシャカ! どっかやっぱ痛いのか?」
 ぱらり、と頬につたう滴をそのままに、シャカは首を振った。横に。
「びっくりした…だけ…」
「な、なんだ、驚いたくらいで泣くなよ、男だろ?」
 ホラ飯、とアイオリアは乱暴にシャカの手を引っ張った。素直に引きずられたまま、シャ
カは目を閉じる。
 風への返答は…明日でもいいだろう。






     おまけ「お兄さんの苦悩」










ぐぬう…